坂井修一『望楼の春』(2009年)
蕪は誰でも知っているチャーミングな野菜。春の七種にも数えられている。「せり、なずな、こぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」のすずなである。日本には弥生時代に大陸から伝わったらしい。ずいぶん昔から、私たちの生活を支えてくれているのだ。
「蕪よつつひだまりとなりかがやけば」。蕪は80ほどの品種があるとのことだが、私がイメージするのは白くて丸い小かぶ。スーパーマーケットでは、4つくらい束ねられて売られていることが多い。それがいま、キッチンにでもあるのだろうか。あるいは、ふらっと来られたどなたかからいただいたものが、束ねられているわけではなくて、たまたま4つ、縁側かどこかに置かれているのだろうか。いずれにしろ、「蕪よつつ」が家のどこかにあって、ひだまりとなってかがやいている。「ぼんぼんと鳴る柱時計が」。そして、柱時計が鳴る。いいなあ、と思う。
「いま・ここ」の出来事ではないのかもしれない。過去の、もしかしたら未来の。
ひらがなの多い一首だ。ひらがなは、意味がやってくるまですこし時間がかかる。それがいいのだと思う。
いつぴきのわれ四匹の亀を飼ふ オーディン、トール、フレイヤにロキ
顔の中そりのこしあり黒と白わがおぼえねど黒がへりゆく
つくばからアキバへわたるひとすぢはなにか省略せしここちする(詞書:つくばエクスプレス)
このゆふべうどんは太くかがやけり三平はわが家族わらはす
つやつやの息子、しわしわの父坐り小半時またとろとろのわれ
ネクタイの三寸下にふぐりもつ悲しみの群れは運ばれゆけり
けふ三度われはかかとを踏まれたり地下道あゆむうすき影らに
ズボンから胴体がでて足がでてポケットにふたつの手が残されぬ
五十歳流さるるなと声ありきありがたけれどわれをしらぬ声
かまきりがわが肩にきて死んでゐる いつしらに伏して眠りし肩に
「私の知る情報理工学も、私の知る短歌も、これからの十年で確実に終わりを告げることだろう。(略)これから私は、これまで経験しなかった新しい孤独と向き合わなければなるまい」。坂井修一は、歌集『望楼の春』のあとがきにこう記す。「これからの十年」。確かにそうだろう。ここでいう情報理工学と短歌は、たまたま坂井の専門領域ということに過ぎない。私たちは、このことを常に意識していなければいけないのだと思う。
とても疲れているように思う。多忙なのだろう。しかし、日常が豊かに語りかけてくれる。「新しい孤独と向き合わなければなるまい」。新しい孤独は、新しい価値観を創出する。方法は、私たちの日常のなかにある。