動く歩道の端の端まで歩みきてひとつ飛びにつく龍馬空港

宮本永子『青つばき』(2013年)

 

動く歩道は、立って乗ってもいいが、歩いて乗ったほうが楽しい。いつもと同じはやさで歩いているのに、周りの景色がびゅんびゅん後ろへ流れる。まるで走っているみたいだ。でも息は切れないし、苦しくない。すごいぞ自分という気になる。だが超能力者になった錯覚を楽しめるのも、歩道の終点に来るまでだ。うっかりしていると、歩道が途切れたとたん、おっとっと、と床へ投げ出される。私など、勢いあまってそのままどこかへすっとんでいきそうになったことが、一度や二度ではない。調子に乗って速足で歩きつづけてはいけないのだ。終点が近づいたら、歩調を落とすとか立ち止まるとか、それなりの対策が求められる。

 

さて歌は、動く歩道を降りるときの、この「おっとっと」という感覚を描いた。慣性の法則を素材にした、ともいえる。ニュートンの運動の三法則の、第一法則だ。静止または一様な直線運動をする物体は、力が作用しない限り、その状態を持続する。

 

〈動く歩道の/端の端まで/歩みきて/ひとつ飛びにつく/龍馬空港〉と7・7・5・8・7音に切って、一首三十四音。龍馬空港は、高知空港の愛称だ。どこかの空港から、旅客機で高知空港へ飛ぶ歌と読む。一読してすっとわかる作りではないが、歌のことばをたどっていけば、ああこういうことかと見当がつく。

 

ある空港にいる〈わたし〉は、搭乗口へ向かう動く歩道の端の端まで歩き、最後にひとっ飛びして歩道を降りた。そのまま高知行きの飛行機に乗り、ひとっ飛びして龍馬空港へ着いた。このように読む。四句の「ひとつ飛び」が曲者だ。動く歩道から降りるときのぴょんと「ひとつ飛び」する感覚と、目的地まで飛行機で「ひとつ飛び」する感覚を、重ねあわせる。三句「歩みきて」の後に来るはずの「飛行機に乗つて」は、省いた。この省略表現により、動く歩道からぴょんと降りたらもうそこは龍馬空港だった、というような不思議なイメージが立ちあがる。四句「ひとつ飛びにつく」の促音を含む8音と、結句「龍馬空港」の「リョーマ」の長音の組み合わせが、内容に添った韻律を生んでいるところも、見逃せない。

ユニークな素材を、ユーモアたっぷりに描いた一首だ。

 

がんもどき煮るのがうまい外塚喬六つ切りにして小なべに入れる

 

歌集には、こんな一首もある。作者の夫であり歌人である人物を、ぬけぬけとフルネームで詠みこむ。宮本永子のユーモア精神はこんな歌にも発揮される。

 

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