霧雨は世界にやさしい膜をはる 君のすがたは僕と似ている

嵯峨直樹『神の翼』(2008年)

 

「才気あふれる作風である。第一歌集にふさはしく、無駄のない構成で、気を抜いたところがない歌集である。それだけに、読みながら強ひられる思ひがするが、それもまた、作者がここになにかを賭けてゐる気迫が伝はつてきて、不快ではない」。岡井隆は、嵯峨直樹の歌集『神の翼』の解説をこのように書きはじめる。

 

「残酷なやさしさだよね」留守電の声の後ろで雨音がする

月光が濡らしはじめる駅前の放置自転車 もう来てもいい

霧雨の降りしきる路 終バスは名前の消えたバス停に着く

揺れながらレールの上を運ばれる末端のある仕事場までを

君の着るはずのコートにホチキスを打てば室内/ひどくゆうぐれ

三月のビニール傘にわたくしをころさぬほどの雨降りそそぐ

キッチンに淡い光が差し込んで姉は野菜の水滴はらう

 

岡井のことばに同感しながら、こんな作品を引いてみる。「あとがき」に「二〇代の後半から三〇代中盤までの短歌を中心に編んだ」と記されているが、青年から壮年に向かう人の精神が、確かにある。

嵯峨は1971年生まれ。私とは10歳違うから同世代とはいえないだろう。しかし、まるで同世代のように、これらの作品は私に親しい。おそらく、具象と抽象のバランスの取り方が、1990年前後の感受性を引き受けているからだろう。あるいはそれに、繊細なひらがな表記の選択の巧みさを加えてもよいかもしれない。そして、「神の翼」というタイトルを選んだ、嵯峨の意志のありよう。

 

霧雨は世界にやさしい膜をはる 君のすがたは僕と似ている

 

はじめて読んだときから、ずっと気になっている一首である。とてもいい一首だと思う。とはいえ、なかなか難しい。

「霧雨は世界にやさしい膜をはる」。雨は空から水滴が落ちてくる天候、あるいはその水滴のこと。意味としてたったそれだけ。たったそれだけだけど、嵯峨の作品を形づくる重要なワード。先に引いた作品でも、一首目の「雨音」、三首目の「霧雨」、六首目の「雨」と、それぞれに重要な働きを担っている。

「霧雨は世界にやさしい膜をはる」。まさにやさしいフレーズだ。しかし、このやさしさは、なんだかとても不思議な感じがする。「君のすがたは僕と似ている」。このフレーズも、やさしい。でも同様に、不思議な感じがする。おそらく、ここには「世界」もないし、「君」も「僕」もいないのだ。いや、正確にいえば、それぞれがそれぞれの位置をもっていないのだと思う。つまり、「世界」も「君」も「僕」も〈私〉のなかにある何かなのだ。だから、「世界」も「君」も「僕」も互いに関係を結べない。それが不思議な感じの理由ではないだろうか。

「加工した針金製のハンガーを俺の隙間につっこんでいる」。一冊にはこんな作品もある。そう、「世界」と「俺の隙間」は、イコールなのだ。

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