都築 直子


長き竿を前籠と肩に押さへつつ自転車はまづ大通りを渡る

真中朋久『エフライムの岸』(2013年)

 

謎をはらむ歌だ。「長き竿」とは何の竿か。なぜ竿を自転車で運ばなければならないのか。
「竿」とだけいえば、竹竿すなわち物干し竿を思う。だが、釣り竿や、旗竿も竿だ。とはいえ、釣り竿は軽いから、自転車で運ぶにしても、この歌のようにおっかなびっくり(という感じである)運ぶことはなさそうだ。旗竿は、業務用が大半だろうから、輸送はまとめて車で行うのではないか。

 

という推量により、「長き竿」は物干し竿だと読んでみる。伸縮可能なタイプの竿だろう。縮めて二メートル前後、運ぶ人の背丈よりやや高いくらいか。ホームセンターかどこかで買った物干し竿を、家まで自転車で運ぶ人がいて、それを〈わたし〉が観察する歌。自転車で持ち帰るのは、配送料の節約だ。あるいは、何事も自力でやろうというドゥー・イット・ユアセルフ精神の発露。

 

〈長き竿を/前籠と肩に/押さへつつ/自転車はまづ/大通りを渡る〉と6・8・5・7・9音に切って、一首三十五音。字余りのだらだら感が、やりつけない作業をするときのもたつき感に重なる。歌の場面は、たぶんこうだ。竿を運ぶ人は、竿の一方の端を自転車の前籠に入れ、竿の途中の部分を自転車の肩すなわちハンドルバーに載せる。竿の反対の端は、斜めに空を指しているはずだ。竿が落ちないよう片手で押さえた人は、もう片方の手でハンドルを握り、自転車をこぎながら大通りを渡ってゆく。運ぶ人の肩にも竿は触れているかもしれないが、これは自転車の形状と前籠の位置によるだろう。

 

ことばの技が随所にある。実際に自転車で道を渡るのは人間なのだが、「人」に類する語を出さない。下句「自転車はまづ大通りを渡る」と、自転車を行為の主体にする。初句から「長き竿を前籠と肩に押さへつつ」と三句まで来た読者は、「前籠はバイクか自転車の籠で、肩は人間の肩だろう」と思う。ところが下句へ来て、「肩」は自転車の肩だと知る。歌のことばはそのようにいう。「まづ大通りを渡る」の「まづ」は、竿を買った店を出てまず、ということだ。これから角を曲がったり路地に入ったり、まだ先は長い。

 

「押さへつつ」に注目する。「支へつつ」とすれば、〈長き竿を/前籠と肩に/支へつつ/自転車はまづ/大通りを渡る〉となり、自転車が竿を籠と肩で「支える」ことは腑に落ちる。だが作者はあえて、動詞「押さえる」を使った。自転車が竿を籠と肩で「押さえる」とはどういうことか。しばらく考える。たぶん、上から押すという意味ではなく、「要点を押さえる」という時などの、しっかり掴まえるという意味なのだ。そう取れば納得できるし、人の手が押さえていることを意味上の隠し味としつつ、ことばの上では自転車が「押さへつつ」と書くことが、むしろ面白く感じられる。どうだろうか。このあたりは、読み手によって感想が分かれるかもしれない。

 

ところで、自転車で竿を運ぶのは〈わたし〉だ、という読みは成立するかといえば、成立する。そう読むことも可能だ。だが私としては、場面の切り取り方やことばの斡旋から、大変そうだけどうまく行くかなあ、という観察者の目を感じるのである。

 

竹伐りて竹をかついで若き日の父とその友が坂をのぼりゆく
大人二人の担ぎゐし竹に手触れんととび跳ねながら坂をのぼりたり

 

歌集の別の章には、こういう歌がある。長い竹を肩に押さえて運ぶ父親たち。自転車で竿を運ぶ人の姿に、作者が立ちどまったのは、無意識の底にあるこんな風景にいざなわれたからなのかもしれない、と読者の勝手な想像はひろがってゆく。