日々のクオリア
横山未来子『花の線画』(2007年)
水に乗る黄葉の影よろこびは遠まはりして膝へ寄り来つ
彫像の背を撫づるごとかなしみの輪郭のみをわれは知りしか
やさしさを示し合ふことしかできぬ世ならむ壁に夕陽至りつ
鴨のからだの通りしほそき跡のこし薄暮の色にしづみゆく湖(うみ)
なだらかに冬陽うつろひ手から手へやさしきものを渡されてゐつ
傷に指を差しいれその人をその人と確かむるまで向きあひてゐむ
日向なる髪あたたかし遠ければ方位つかめぬ鳥のこゑする
透明な。清潔な。静かな。そんなことばが浮かんでくる作品たち。横山未来子の歌集『花の線画』から引いた。横山は、ていねいに向き合い、ていねいにことばを選ぶ人だと思う。
世界はけっして穏やかではない。しかし、私たちひとりひとりは、穏やかであることができる。そう思う。
白昼に覚めたる眼(まなこ)ひらきつつ舟の骨格を見わたすごとし
大きな作品だ。直接詠まれている空間は小さい。しかし、この〈私〉の身体が、とても大きいと思うのだ。
「白昼に覚めたる眼(まなこ)ひらきつつ」。白昼に眠っていた。その理由や状況はわからない。むろん、わからなくていいのだし、わからないからいいのだ。理由や状況が捨象されているがゆえに、一首はくっきりとした形になる。「舟の骨格を見わたすごとし」。「舟の骨格」という把握が心地いい。舟は、横山にとって親しいものなのだ。とはいえ、親しいだけではなさそうだ。だから、見わたすのだ。その繊細な感覚が、上句に返ってくる。白昼に眠っていた、ということに。
ていねいに向き合い、ていねいにことばを選ぶ人、と書いた。ていねいというのは、時間がかかる。だから、大きくなれるのだろう。そして、穏やかであることができるのだろう。