楠見朋彦『神庭の瀧』(2010年)
短歌は、読者に「あるある」と共感されることをいう場でもなく、深刻ぶって社会を憂う場でもない。短歌は遊びの場だ。ことばで遊ぶ。ことばと遊ぶ。もちろん遊びのつねとして、そこは真剣勝負の場だ。ということを、現在もっとも体現している作者の一人が、塚本邦雄門下の楠見朋彦である。
第一歌集『神庭の瀧』(かんばのたき)には、夢をテーマにした十首一組のアクロスティック作品が十一ほど、「夢氷」「灼夢」「夢の舟」といった小題の下に並ぶ。アクロスティックはいわば西洋版の折句だ。折句は、たとえば「かきつばた」の五音を〈からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ〉(在原業平『古今集』)と読み込む技法。アクロスティックは、詩や文章の各行頭または行末の文字をつなぐと、あることばが現れるように作る技法だ。実物をお目にかけよう。「夢の波」と題された章は、発想の種というべき大弐三位の歌に続いて、十首の歌を置く。
はるかなる唐土までも行くものは秋の寝覚の心なりけり 大弐三位
*「唐土」に「もろこし」、「寝覚」に「ねざめ」のルビ
秋風にはるかなる もろこしはゆめの外
あ あはれとも言ふことなしに百日紅一樹が隔ちたる夢のほか か
き 究極を問ひしことあり禁色の湖面をすべりゆくあまたの帆 ほ
か 烏丸の地下ゆくときの共鳴よ愁ひにおほはれむうつしみの の
せ 絶唱と聞きまがふことまれにあり白鳥はおもき首をたわめ め
に ニュートリノ奔る気ままさもて晩夏全身を貫いて去れる喩 ゆ
は ハバネラは墓石の間にさんざめく眠りを分たざりき我らは は
る 涙淵の一語見出しざわざわと夢幻の崖つ淵に立つわたくし し
か からころもポリエステルに塗れつつ秋風を取り逃がす手底 こ
な なだらかに現の線がブレてゆくゆめの白波よせかへすころ ろ
る 瑠璃鳥の影ぞよぎれるわがそらの空木は幹に時を満たすも も
残念ながらこの画面ではうまく表示できないのだが、各首末尾の、下から読んで「もろこしはゆめのほか」の部分は、歌集ではまっすく一文字に並んでいる。いずれにせよ、この仕上がりは熟達の職人仕事だ。制約があればあるほど、技が冴える。行頭と行末音の制約、一行の文字数を揃える制約、「夢の波」を語るという内容の制約。すべてをクリアした後の、文字面の美しさ。
冒頭に掲げた一首は、「あきかせに」の「に」の位置にある。〈ニュートリノ/奔る気ままさ/もて晩夏/全身をつら/ぬいて去れる喩〉と、5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。四句から五句にかけて「貫」が「つら/ぬ」と跨るため、便宜的に平仮名表記にした。歌意は、思いきりくだいていえば「あのキザったらしい比喩、思いついたけど使わないでよかったなあ」ということだろうか。紫式部の娘である大弐三位の歌から出発して「ニュートリノ」へ飛ぶところが楽しい。正調塚本節というべき句跨りも、ぴたりと決まる。
こうしたアクロスティック作品を、歌集のために作者は十一組つくりあげた。技量と遊び心が二拍子揃わなければ、出来ないことだ。塚本邦雄の詩精神を継ごうという、つよい意志を感じる。楠見の師は、いきいきした遊び心の持ち主だった。読み手が思わず「キュート!」と叫びたくなる作品を作った。
椿事 塚本邦雄『水葬物語』
ダンドリヨン・リヨン ・ たんぽぽと獅子
ポワソン・コリマソン ・ おさかなと蝸牛
ファソン・ギャルソン ・ えんりよ・少年
アルム・ヴアキヤルム ・ 武器・大さわぎ
片仮名表記のフランス語と、日本語は、意味の上で対応する。そして、それぞれ五七五七七で読めるのだ。ダンドリオン・リヨン・ポワソン……。たんぽぽと獅子おさかなと蝸牛……。「だから何?」という人には、お引き取りいただこう。
遊び心はうつくしきかな。
匿名で失礼します。
才気煥発な言葉巧者、こうした作者がおられるのですね!個人的には最も好みに合う短歌の傾向です。かつ、そうでない歌もまた、滋味あるものとして味える感性だか人生経験だかは持ち合わせてはいますが・・・やはり匠の技で言葉を楽しませてもらえることはなによりの娯楽です。
本日のご紹介の文章、あえてなのでしょう、いわば独断的な論調が内容と合っていて、読ませますね!
毎度楽しませていただいております。筆者の力量も凄いことがにじみ、歌歴がそれほど長くない方と知って驚いております。
ますますのご活躍を!
コメントをありがとうございます。