堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(2013年)
堂園昌彦の第一歌集は、活版印刷による一ページ一首組みの美しい本だ。光森裕樹『鈴を生むひばり』と同じく、港の人から発行された。目次には「彼女の記憶の中での最良のポップソング」「すべての信号を花束と間違える」「音楽には絶賛しかない」といった小題がならぶ。片岡義男の本の目次のようだ。見ているだけで楽しくなってくる。
さて歌は、塚本邦雄〈高度千メートルの空より來て卵食ひをり鋼色の飛行士〉(『装飾楽句』 *「鋼色」に「はがねいろ」のルビ)への返歌と読む。塚本作では、高度千メートルの空から地上に降りてきた鋼色の飛行士が、卵を食べている。ゆで卵をむしゃむしゃ食べているのか、ナイフとフォークでスクランブルエッグを食べているのか。堂園の歌が描くのは、その少し後の場面だろう。卵を食べながら冷たい空のことを話した飛行士は、外国の塩を置いて去っていった。いま二つの歌をつなげて記すとこうなる。
高度千メートルの空より來て卵食ひをり鋼色の飛行士 飛行士は冷たき空のこと話し外国の塩置いて帰った
本歌が「飛行士」で終わったところへ、「飛行士」とことばをバトンタッチして詠いおこす。遊び心がある。堂園の飛行士が「冷たき空」について話すことができるのは、「高度千メートル」が窓を開け放して飛べる低空域だからだ。高度一万メートルを飛ぶ、密閉された旅客機の飛行士は、空の空気に触れることができない。塚本作のストーリーを展開した歌だが、その塚本作にも本歌がある。西東三鬼〈冬空を降り来て鉄の椅子にあり〉〈紅き林檎高度千米の天に噛む〉という二句だ。塚本も塚本で、ストーリーを語りついでいる。空で林檎を食べたのち、地上で卵を食べる飛行士。
〈飛行士は/冷たき空の/こと話し/外国の塩/置いて帰った〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。二句は「冷たい」とせず「冷たき」とする。「い」と「き」の違いは、一首の中にあって大きい。口語表現を基本とする作者は、歌集の中で形容詞をほぼ「い」の形に揃えている。ここで「き」を使うのは、本歌とトーンを合わせるためだろうか。
作者が塚本作品を読みこんでいるらしいことは、歌集に置かれた次の歌からもわかる。
映画の話をしたりされたり暁の指の間に地獄があるね 堂園昌彦
晴天にもつるるとほきラガー見む翳せしゆびの間の地獄に 塚本邦雄『綠色研究』
*「翳」に「かざ」、「間」に「あひ」のルビ
「飛行士」の展開に比べ、「指の間に地獄」には見るべき展開がないだろう。「晴天」「ラガー」を「暁」「映画の話」に変えただけという印象だ。一ページ一首で打って出るからには、もっと何かがほしいといいたくなる。
さて、1956年刊行の塚本歌集に収められた「飛行士」の歌からほぼ半世紀後、堂園昌彦によって「飛行士」のストーリーは語りつがれた。いまから半世紀後、堂園の「飛行士」を語りつぐ者はあらわれるだろうか。
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当欄で9月14日に紹介した斉藤斎藤〈くす玉から平和のハトが弧をえがくドームの骨の上の青空〉について、谷村はるかさんから昨日、ページ下段のコメント欄へ投稿をいただいた。過去ログの、9月14日のページ下段に載っている。谷村さんのコメントに感謝しつつ、ここにも紹介する。
以下引用
都築さんお書きの9月14日一首鑑賞内の疑問について取り急ぎ解答します。「くす玉から平和のハトが」の歌は谷村はるかの歌ではありません。
谷村はるか
引用ここまで