山田 航『さよならバグ・チルドレン』(2012年)
ああ檸檬やさしくナイフあてるたび飛沫けり酸ゆき線香花火
うろこ雲いろづくまでを見届けて私服の君を改札で待つ
知らぬ間に解けてしまつた靴紐がぴちぴち跳ねて夏がはじまる
『さよならバグ・チルドレン』は、読みはじめるとすぐに、いい歌集だと実感できる、そんな一冊だ。そしてまた、読みはじめるとすぐに、痛ましい、そんな気持ちが湧き上がってくる。不思議なことに、それはそこに置かれている作品たちに対してでも、著者に対してでもない。そう、読者である私、正確にいうと、何年も前の、10年も20年も前の私に対して、こうした気持ちが湧き上がってくるのだ。
痛ましさ。それは何なのだろう。何かをできなかった私。何かをしてしまった私。いずれにしても、その時の、忘れていた、忘れたままにしておきたかった私が、ふいに立ち現れる。何かといっても、具体的なもの/ことではなく、でも確かなもの/こと。
切り傷は直線をなすアフリカの幾つもの国境(くにざかひ)にも似て
旅行鳩絶滅までのものがたり父の書斎に残されてをり
掌のうへに熟れざる林檎投げ上げてまた掌にもどす木漏れ日のなか
さみしいときみは言はない誰のことも揺れるあざみとしか見てゐない
粉雪のひとつひとつが魚へと変はる濡れたる睫毛のうへで
北方と呼ばれて永き地をひとり老狼はゆく無冠者として
粉と化す硝子ぼくらを傷つけるものが光を持つといふこと
旧かなが骨格を支えているのだろう。骨格。それは、山田航が認識する世界のかたち。世界は、意味が形づくっているのではない。だから、旧かなが美しく機能するのだと思う。
世界ばかりが輝いてゐてこの傷が痛いかどうかすらわからない
そうなのだ。だから苦しいのだ。しかし、世界が輝いていなかったら、この傷が痛いかどうかわかるのだろうか。おそらく、わからないと思う。世界が輝いているか、輝いていないかではなく、私たちの身体の力が衰えていることが問題なのだ。そして、このことに多くの人が気づいていない。
「この傷が痛いかどうかすらわからない」。山田は、「すら」に回復の願いを込めているのではないだろうか。ふと、そんな気がする。