吉野 裕之


降る雨の夜の路面にうつりたる信号の赤を踏みたくて踏む

内山晶太『窓、その他』(2012年)

 

『窓、その他』。ああ、なんだか難しい感じだなあ、と思う。「その他」という語がある名詞の後ろに置かれるとき、そのようすを整えるのは難しいと思うのだ。ある名詞と「その他」をどのように繋ぐのがよいのか。どうでもいいことかもしれないが、考えはじめると落ち着かず、困ってしまう。

『窓、その他』。内山晶太は、「窓」と「その他」とのあいだに読点を置いて繋ぐ。不安定な印象を与えるが、おそらく正しいのだ。

 

春の日のベンチにすわるわがめぐり首のちからで鳩は歩くを

鉄道のなかに白夜があるという子どもの声すわれの咽喉より

冬のひかりに覆われてゆく陸橋よだれかのてのひらへ帰りたし

馬と屋根ひとつながらに回りゆくそのからくりは胸に満ちたり

目を閉じて河原まできて目をあけて菜の花の点滴に触れたり

布のごとき仕事にしがみつきしがみつき手を離すときの恍惚をいう

うすくらき通路の壁にリネン室げにしずかなり布の眠りは

 

「窓」と「その他」とのあいだに読点を置いて繋ぐ正しさ。そのことを思う。『窓、その他』は、著者30代半ばでの、最初の歌集。この正しさは、こうした作品の正しさなのだと思う。

日常の、他人にいわせればどうでもいいようなことかもしれない、しかしけっして気づかなかった振りはできない、そんなこころの出来事。内山は、こうしたもの/ことを確かにことばに刻んでいく。

 

降る雨の夜の路面にうつりたる信号の赤を踏みたくて踏む

 

なんでもないような一首、と書きはじめて、それは間違いだと気づく。「降る雨の夜の路面」。そう、このふわっとした、しかしなめらかな感じは、なんでもないような一首ではない。「降る雨の」のあとの微かな切れが、大きな時間を引き受けようとする内山の意志を示しているのだろう。大きな時間。それは短歌という詩型が抱えている時間である。

「路面にうつりたる信号の赤を踏みたくて踏む」。青ではなく、赤なのだと思う。信号の青は踏みたくはならない。踏みたくなるのは、赤。理由は考えなくてもよいのだと思う。そういう事実があって、確かにリアリティがある。それだけでよいのだ。

「5・7・5・8・7」。四句が字あまりになっている。「を」は省略できるかもしれない。しかし、内山はていねいに「を」を置く。助詞が短歌という詩型の骨格の要であることを知っている。