都築 直子


眼も魔羅も老いさらばえよわがものにはやもはやなりてしまえよ

阿木津英『紫木蓮まで・風舌』(1980年)

 

パッション全開の歌だ。
はやく老いさらばえてわたしのものになってしまえ。若い女が男にいう。こんなことをいわれるのは、どんな男か。むろん、とびきりセクシーな男だろう。美形である必要はない。容姿容貌が美であれ醜であれ、ある種の男は本人の意志と関わりなくつねにフェロモンを放出しているのであり、女はこういう男に吸いよせられずにいられない。女が放っておかない男。年若い必要もない。歌の男も若くない。はやく老いさらばえよ、といわれるのは、五十代くらいか。あるいは、六十代か。老いはじめてはいるが、本格的な老いにはまだ間がある頃。いずれにせよ、いま男のまわりには複数の女がいる。〈わたし〉もそのうちの一人だ。でも、ワン・ノブ・ゼムであることに、もう〈わたし〉は耐えられない。

 

〈眼も魔羅も/老いさらばえよ/わがものに/はやもはや/なりてしまえよ〉と5・7・5・5・7音に切って、一首二十九音。初句に画数の多い漢字を配し、「老い」の「い」以下を平仮名にひらいて、狂おしいつぶやきのさまを表わす。五句「はやもはや」は、漢字ならば「早最早」だ。たたみかける口調に加え、二音欠落させて「はやもはやなりてしまえよ」と、流れをぎくしゃくさせる。心の波立ちに、韻律を添わせる。

 

「眼も魔羅も老いさらばえ」た男とは、性的機能を失った男だ。〈わたし〉は男にその機能を求めない。いわゆる「使いものにならなくなった」男でいいという。むしろ早くそうなれという。なぜなら、男の価値は別のところにあるから。それを知っているのは〈わたし〉だけだから。所詮ほかの女には男の真の価値がわからない。男を丸ごと、一人の人間として愛せるのは〈わたし〉だけなのだ。この「わたしだけがわかる」という自負と矜持は、恋する者に共通のものだろう。ぞっこん、という言葉が浮かぶ。幸せな男である。女の思いを、受け止めるにせよ、逃げ出すにせよ、こんなことをいわれた時点で最高の果報者だ。間違っても、男としての機能を求められないなんて屈辱だ、などといいださないでもらいたい。

歌集には、つぎのような歌もあり、この男女のありようを生々しく伝える。

 

雨じめる畳のうえにおそろしき鳥獣の声あげて争う

完璧に奪わむとするよろこびをいつのころより知りやしぬらむ

 

さて、作者の性別に従い、〈わたし〉を女として読んできたが、作者名を外せば〈わたし〉を男と読むこともできるだろう。性別、立場などさまざまなシチュエーションを思い描くのは、読者の楽しみだ。私は、冒頭に掲げる一首を読んで、こんなことをいわれる人になれたらなあ、と夢想した。「魔羅」を持たない当方は、いわれるとすれば、「眼も陰も」ということになる。

 

眼も陰も老いさらばえよわがものにはやもはやなりてしまえよ  (改作)

 

いまこの一行を書きながら、マルグレット・デュラスを思う。中国人青年と十五歳の自分の性愛を描いた自伝的小説『愛人(ラマン)』で知られる作家。六十六歳のデュラスは、二十八歳の青年ヤン・アンドレアと恋に落ちた。この一行は、デュラスに向けたヤン・アンドレアのことばにこそふさわしいかもしれない。
こんな歌がある。

 

年の差は三十八歳アンドレア・ヤンは相会ふ前よりの恋    春日井建『朝の水』

言ひつのるデュラスを見つむる青年の困惑の面わがひとに似る

 

 

編集部より:『紫木蓮まで・風舌』が全篇収録されている『阿木津英歌集』はこちら↓

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