吉野 裕之


にぎりしめる手の、ほそい手の、ああひとがすべて子どもであった日の手の

笹井宏之『ひとさらい』(2008年)

 

「子持ちししゃもと猫が好き」。PROFILEのページにこんな1行を置いて、笹井宏之の歌集『ひとさらい』はある。

 

わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒

ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした

猫に降る雪がやんだら帰ろうか 肌色うすい手を握りあう

焼き鮭な人とグラジオラスな人どっちか選べ今すぐ選べ

内臓のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす

「はなびら」と点字でなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい

拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません

「とてつもないけしごむかすの洪水が来るぞ 愛が消されたらしい」

北極のパン屋さんには夏という商品があるらしいと聞いた

美術史をかじったことで青年の味覚におこるやさしい変化

 

笹井は、やさしい。限りなく、といってもいい。そのやさしさは、笹井を傷つけない。『ひとさらい』は2005年3月から2006年4月までの作品を収めている。「ひかりのごとき、十四ヶ月でした」。あとがきに、笹井はこう記す。

笹井は、世界を信じている。世界が健やかにあることを信じている。笹井にとって短歌は、世界と出会う方法なのだ。世界には、見えないもの/ことや聞こえないもの/ことがたくさんある。「ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした」。笹井は、こうしたもの/ことと、ゆっくりと出会っていく。そう、ゆっくりと。そのありようが、つまりやさしさなのだ。

 

にぎりしめる手の、ほそい手の、ああひとがすべて子どもであった日の手の

 

6・7・5・7・7。初句6音のやわらかな一首。さらに、6・(2・3・2)・5・7・(3・2・2)と受け取りたい。2音、3音の小さな音の集まりが、一首を豊かに膨らませている。

「手の」の3回の繰り返し。しかし、それに続くことばはわからない。「にぎりしめる手の、ほそい手の、ああひとがすべて子どもであった日の手の」。ああ、と思う。笹井は、ゆっくりと探している。しかし、そこに辿り着こうとはしない。笹井は、ことばにできないもの/ことがあることを知っている。だから、辿り着くことをめざさない。それが、ことばに対する笹井の誠実さ。

『ひとさらい』の上梓の1年後、笹井は26歳で亡くなった。