吉野 裕之


窓をうつ風雨となれる夜のほどろ目ざめて俺は青年ならず

島田修三『帰去来の声』(2013年)

 

会議三つ終へてもどれば冬かげにぬくとく濡れて俺を待つ椅子

褪せやすき辛夷の花も芽吹きつつ春のあはれぞ近づきにける

たそがれを人にしたがひ胴長の獣ゆまりすポストの根かたに

「坂上郎女(さかのうへのいらつめ)さん」とあるレポートを読みつつ俺は脱力する人

停年の廣岡さんよりねんごろの葉書はとどきそれから余寒

そのむかし麒麟に額を舐められし男来たりぬ大雪のあした

同僚の慈父悲母といふ遠きひとの訃を聞く日々や寒ぬるみゆく

 

『帰去来の声』は、2008年から2012年の、年齢としては60歳前後の作品を収めた島田修三の7冊目の歌集。かつてのそれも含め、日々のささやかな思いが、穏やかに語られていく。

「会議三つ終へてもどれば冬かげにぬくとく濡れて俺を待つ椅子」。疲れているようだ。一冊は、疲労感を抱えている。多忙なのだろう。多忙なのは、時間的なもの/ことだけではない。「停年の廣岡さんよりねんごろの葉書はとどきそれから余寒」。痛みを知っている。そして、痛みを受け止めることを知っている。だからときどき、「脱力する人」になるのだ。

 

里芋のくづあんかけをとめどなく箸につぶして思案するかも

あんパンの臍に桜の塩漬けの入りたる啖らひこころは足らふ

壺あまた在りし厨の記憶にて壺は優しき容れ物なりき

にぎり飯の海苔薫れるを啖らふなり春の光のしぶきに濡れつつ

佃煮の鮠のはらわた舌に苦(にが)しむかしも春はにがかりしかな

空腹に来たるうたげに胃の足ればたちまち心(しん)足り愉快にいたる

つづまりは見た目ほどには腹坐らぬ奴なり畳鰯をあぶるも

 

島田は、啖らう人でもある。これはときどきではなく、いつものようだ。飲食や飲食にかかわる作品が、楽しい。「壺あまた在りし厨の記憶にて壺は優しき容れ物なりき」。飲食の大切さを知っている。それは、敬意と感謝であろう。

 

窓をうつ風雨となれる夜のほどろ目ざめて俺は青年ならず

 

「窓をうつ風雨となれる夜のほどろ目ざめて」。窓をうつ強い風雨になった明け方、ふと目覚める。風雨の音が理由なのか、あるいは別に理由があるのか、それはわからない。ただ、ふと目覚めた〈俺〉がいる。

「目ざめて俺は青年ならず」。このフレーズは「目ざめて俺は」「俺は青年ならず」という2つが1つになったものだろう。つまり、目覚めた〈俺〉と青年ではない〈俺〉。認識する〈俺〉と認識される〈俺〉、というと詰まらなくなってしまうけれど。

目覚めた瞬間は危険な時間だ。日頃意識しない、しかしけっして間違っていないことが、身体にやってくる。それによって、後悔したり、傷ついたりしたりすることもある。間違っていないことは自身がよくわかっている。「寝て暮らす人ならざれば糊こはきワイシャツまとひ起動す俺は」。もうすこしで、また一日がはじまる。

 

編集部より:島田修三歌集『帰去来の声』はこちら↓

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