久野はすみ『シネマ・ルナティック』(2013年)
結句まで読んだとき、自分のなかにどんなイメージが浮かぶか。そのイメージを検分して楽しむための歌だ。ぜんたいが暗喩で出来ている一首であり、「これが正解です」という読みはない。差し出されたことばに触れて、自分の中からなにが出てくるのか。自分の内側をのぞきこんで楽しみたい。
〈百枚の/まぶたつぎつぎ/閉じられて/もう耳だけの/町となりたり〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。表面上の意味は、ことばの通りだ。百枚のまぶたが次々に閉じられて、いまはもう耳だけの町になった。だが、「まぶた」とは誰のまぶたか。「耳」とは誰の耳か。
はじめて読んだとき、夜になって静まりかえる町を私は思った。人々はまぶたを閉じ、店々もシャッターを閉じ、眠りに入ってゆく。いま、町だけが覚醒して、耳をすませている。遠くから届く音、宇宙から飛来する音を聴いている。そういうイメージ。朝が来るまで、宇宙との交信以外のことを、町はもうやらなくていい。
まぶたは「百枚」だ。「千枚」でないのがよかった。「千の風になって」という歌が流行ってから、「千」は俗臭を帯びた。Mの音が、「百枚」「まぶた」「もう」「耳」「町」に出てくる。一首を音読する間にくちびるが五回閉じあわされ、それが快い。
あるいは、「耳だけの町」は、死ぬ直前の町かもしれない。人が死ぬとき、聴覚は最後まで残るという。瀕死の町。もうすぐ完全な死を迎える町。なぜなら人々は皆殺しにされたか、どこかへ連れ去られてしまったから。無人の町。地上にヒトがあらわれてから、こういう町はさまざまな時代のさまざまな場所に存在しただろう。「もう耳だけの町となりたり」というフレーズに、想像が広がる。
もう一度、自分のなかに浮かんだ風景を、たどり返してみる。どうやら、歌をはじめて読んだとき、こころの中には、おだやかな町と瀕死の町という相反するイメージが、同時にあらわれたようだ。べつだん不思議なことではない。一つのことばに引き出される風景や思いは、一つではない。それらが重なりあい、響きあって、歌の手ざわりが出来あがってゆく。静かだけれど、どこか悲劇性を帯びている夜の町。それが、この一首から私が感じる手触りだ。そしてそれは、魅力的な手ざわりなのである。
花園に花なきこともよしとして赤絵にのせる「ぬれ甘なつと」
歌集には、このように場面が特定できる歌もある。花園に来たら花は咲いていなかったが、皿に甘納豆をのせて、花より団子ねと思う。「赤絵」がいい。新かなづかいの作者だが、「ぬれ甘なつと」は商品名のかなづかいのまま、「なつと」と記す。旧かなづかいの歌に新かなづかいの固有名詞が挿入される例はときおり見るけれど、反対の例は珍しい。
『シネマ・ルナティック』は、白地のフランス装に、版画家スミダヒロミによる表紙画と、五枚の挿画を配する。版画と短歌が、互いのよさを引き出している印象だ。北原白秋の『桐の花』(1913年 東雲堂書店)もこんな塩梅かと想像する。私は残念ながら目にしたことがないけれど、東雲堂版は「挿絵として、自筆の扉絵十四、欄画二十が含まれている」(玉城徹 短歌新聞社文庫版『桐の花』「解説」)という。歌集における挿画の効用を考えたくなる。
「あとがき」によれば、この第一歌集の作者は、かつて演劇の仕事に携わっていたらしい。演劇と短歌について、久野はすみはこう書く。〈両者の共通点は、思うに「大きな嘘」ではないでしょうか。舞台の上で演じることは大変な虚構ですし、短歌には独特の言葉遣いや定型という約束事があります。そのような虚構の上に小さなリアルを積み重ねていくのが、表現だと思うのです。そして、その表現が完成するためには、受け手の想像力が必要だという点でも、両者はよく似ています〉。
歌集には〈人のいい役者は下手と決まってるわけではないが概ねはそう〉というユーモア仕立ての作がある。「役者」を「歌人」に置きかえてもそのまま通用する内容だ。ともあれ、きちんとした短歌観を持つ新人の登場をよろこぶ。
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