仙波龍英『墓地裏の花屋抄』(2000年)
ひら仮名は凄(すさま)じきかなはははははははははははは母死んだ(享年七十二歳)
窓硝子(まどがらす)すべて激しく共鳴す桜の蕾ひらきゆくとき
水をうつ、墓地裏の花屋つつみたる残暑は貌をもつてゐるのだ
さみしさのすべてを集め降りつづくこの長雨月が墓石をあらふ
仏壇はつねに閉ざされ夜昼とゆるやかに塵ふりつもるのみ
乱歩邸ながめて帰途のゆふまぐれ「ソープランド」もパノラマの中
ジャンボ機の機長ぼそりとつぶやきぬ「未来よろづうけたまわり〼」
『墓地裏の花屋抄』は、仙波龍英の短歌100首と荒木経惟の写真6葉のコラボレーション。作品は、『墓地裏の花屋』(マガジンハウス、1992年)からの抄出。抄歌は藤原龍一郎、発行はギャラリー・イヴ。「墓地裏の花屋 歌人仙波龍英の世界」展(ギャラリー・イヴ、2000年11月6日~30日)にあわせて刊行された一冊である。
1ページ6首組のA4判32ページに置かれた作品は、クリーム色の用紙の上で、一首一首が確かな存在感を纏いながら、静かに、しかし私たちの生の現場にノイズを投げかけてくる。「はははははははははははは」。ノイズは、私たちを覚醒させる。
十月の雨そぼふりぬ公園にをさなごひとりゲートボールす
「十月の雨そぼふりぬ」。すこしずつ秋が深まってきた十月、雨がしとしとと降っている。「公園にをさなごひとりゲートボールす」。公園に小さな子どもがひとりでゲートボールをしている。平明な作品だと思う。しかし、けっして平凡な作品ではない。
一首は、二句で切れている。つまり、初句と二句で雨のようすだけが提示されている。その後に、三句で空間が提示され、四句と五句で空間のなかのようすが提示されていく。提示が3段階に分かれることによって、イメージは鋭く読者のなかに立ち上がってくる。うまいなあ、と思う。
空間のなかのようす。それは、高齢者のスポーツの代名詞ともなっているゲートボールを、小さな子どもがひとりでしているというもの。ゲートボールは、日本発祥のスポーツというのはよく知られていると思うが、もともとは満足な遊び道具もない戦後まもない頃に、子どもの遊びとして考案されたというのは、意外と知られていないのではないだろうか。
「十月」。それは、「いま・ここ」の十月ではないのかもしれない。