吉野 裕之


つはぶきの花は日ざしをかうむりて至福のごとき黄の時間あり

小中英之『翼鏡』(1981年)

 

螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹とあひたり

階くだる夜の足下に枇杷の実のみのりほのかにもりあがり見ゆ

鶏ねむる村の東西南北にぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ

曇り日のなぎさ岩むら白猫(はくめう)はアンチ・ロマンのごとく歩めり

島山のみなみかたがは春の木にあふるるばかり花かがよへり

さくら花ちる夢なれば単独の鹿あらはれて花びらを食む

沢瀉は水の花かもしろたへの輪生すがし雷遠くして

 

端正で、静謐な作品たち。小中英之は、そんな作品を紡ぎだす。生前たった2冊しか歌集を上梓しなかった小中は、しかし確かな個性をもって立っていた。

小中の風景は、美しい。風景は目の前にあるのではない。風景は、自身のなかにあるのだ。知と情のあいだで、生=死を見ているのだろう。美しさ。それは、無駄のないたたずまいのこと。

 

つはぶきの花は日ざしをかうむりて至福のごとき黄の時間あり

 

石蕗は、キク科ツワブキ属の多年草。日陰でもよく育つようで、園芸植物として庭の石組みなどによく見かける。晩秋から初冬に黄の花を咲かせるが、葉とのバランスがとても不思議な感じがして、昔からとても気になる植物だった。わが家は集合住宅だが、ベランダに鉢植えがある。まだ若い常滑の作家・掛江祐造の器に、いまそれが活けられてある。

「つはぶきの花は日ざしをかうむりて」。被るは、恩恵などを受けるという意味と頭からかぶるという意味の2つを兼ねているのだろう。日ざしという恩恵を受け、日ざしに包まれている石蕗の花。この頃の柔らかな日ざしは、石蕗に親しい。

「至福のごとき黄の時間あり」。その風景と小中も親しい。それを「至福のごとき黄の時間」と表現する。「ごとき」の直喩が巧みだ。「至福の黄の時間」では凡庸だろう。

無駄のないたたずまい。小中の風景は、ほんとうに美しい。

 

編集部より:小中英之歌集『翼鏡』が全篇収録されている『小中英之歌集』はこちら↓

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