影絵より影をはずししうつしみはひかり籠れる紙に向きあう

内山晶太『窓、その他』(2012年)

 

影絵芝居だ。〈わたし〉は客席から、練習を見ている。そこにあるのは、ライトの光、影絵人形、人形つかい、影を映す紙の幕、客席の〈わたし〉。あるシーンを演じ終えた人形つかいは、影絵人形を床か台かに下ろした。次のシーンを始めるまで、紙の幕には光だけが当たっている。暗がりから見ていると、それはまるで光がこもる大きな籠のようだ。ひかりの籠。影は映っていないけれど、人形つかいはいま籠のどこかにいて、光の内壁と向き合っている、と〈わたし〉は思う。

 

〈影絵より/影をはずしし/うつしみは/ひかり籠れる/紙に向きあう〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。初句から結句まで、ことばが練られている。

 

まず「影絵より影をはずしし」が出来たフレーズだ。影絵人形を幕の前からおろすことを、こういった。文法通りきちんと「はずしし」とする。「はずせし」とはしない。三句は、少年、若者、老人、村人、団員、など何でも代入可能だが、抽象化していかにも短歌的な「うつしみ」でゆく。「ひかり籠れる紙」が美しい。やや美しすぎるともいえるが、「影絵より影をはずしし」の印象がつよいので、一首の中でそう目立たない。

 

影絵芝居の幕は、客席との間に一枚張られているだけだ。けれど「ひかり籠れる紙」といわれると、紙の幕が光の四方に張られているようなイメージが生まれる。暗がりのなかの発光体。読み手は、光に向き合う人形つかいになってまぶしさを感じる。

 

暗がりの中のまぶしさ。この感触は味わったことがあると思って記憶をたぐると、こんな歌が出てくる。

 

暗やみにマッチをすりて残像のかがやく視野をしばらく歩む  上田三四二

 

7月20日の本欄でも紹介した一首だ。内山作品と上田作品、どちらの歌の中の「かがやき」も、しんと静かなかがやきだ。そして、そのひかりと向き合う人の息づかいを感じる。

 

あるいは、内山の一首は、夜の歩道をゆく〈わたし〉が、ゆきずりの家の窓を見ている場面かもしれない。とある窓の内側に人が立っていて、影絵のように見えた。見るともなく見ながら歩いてゆくと、影は消えた。部屋の奥の、灯りに近いところへ行ったのだろう。窓には黄色いひかりだけが広がっている。こういう場面だ。部屋の住人である「うつしみ」は、同時に「影絵」の「影」でもあるだろう。
さまざまに場面を想像してみるよう、読者をそそのかす一首である。