吉野 裕之


少年の糸鋸(いとのこ)一つ残りいて夕陽にひろき工作の部屋

馬場あき子『地下にともる灯』(1959年)

 

馬場あき子の作品をはじめてまとめて読んだのは、20年以上前の20代の頃。現代歌人文庫の『馬場あき子歌集』(1978年)だった。私の手元にあるのは初版第四刷(1985年)。難しいな、と思いながら、それでも惹かれる作品は少なくなく、いまも当時付けた印が残っている。20代の頃の自分に会うようでなんだか照れ臭かったが、久しぶりに本棚から取り出した。あらためて読んでみると、当時気づかなかった作品にずいぶん出会うことができた。

 

工場の背をめぐりつつ海に入るさびしきまでに音たてぬ川

よごれたる背に風孕み高く高く電線をつなぎおり語らざる二人

父が株わずかにあがるこの夕べいずこに動く武力と鉄と

排卵のとき近づきて怒りもつ魚鱗するどししたたる光

けわしさを失わぬ目のなお潔く海鵜は飼わる羽切られつつ

劇(はげ)しきものすべて孤独と思う夜を栗の花におう雨にまじりて

キジ射ちの日の来たりつつぼうぼうと炉辺の焔祖母つかさどる

 

たとえばこれらの作品にも、恥ずかしいからどれがとは書かないが、当時気づかなかった作品が含まれている。

正しさということだと思う。それは意志。正しさを自らの目で見つめていこうという意志。これらの作品の清しさは、こうした意志が支えているのだと思う。正しさ。しかしそれは、理によるものではない。若いがゆえに未熟かもしれないけれど、人として生きていくための知によるもの。だから、清しさが一首を貫いているのだろう。

1961年生まれの私は、この時代を知らない。しかし、時代のリアリティを掴んでいることは直感できる。

 

少年の糸鋸(いとのこ)一つ残りいて夕陽にひろき工作の部屋

 

少年は、危うい。「系列をはみ出してゆく語を愛し少年は忌むわれの文法」。そう、少年はそんな語を愛する。少年は、可能性を可能性のまま抱えている。だから、選ぶことを迫られる。選ぶことを繰り返し、少年は大人になる。しかし、いつでも選べるわけではない。むしろ選ぶことができないときのほうが多い。そんなとき少年は、はみ出してゆく語を愛するのだろう。

「少年の糸鋸一つ残りいて」。少年は、ここにはいない。その糸鋸だけがある。「残りいて」。少年の不在が、くっきりとある。もう家に帰ったのだろうか。あるいは、学校や家とは違う、自分の居場所をもっているのだろうか。「夕陽にひろき工作の部屋」。工作の部屋。そこは、可能性が小さな具体になる場所。夕陽は、一日が終わることを知らせるとともに、つぎの一日の健やかさを予感させる。そんな夕陽に、工作の部屋が包まれている。

ここにいない少年。ここにある工作の部屋。それを繋ぐのが〈私〉の思い。「ひろき」の一語が、やさしい。