気が付いた時にはすでにしやべつてた日本語だから気付かなかつた

香川ヒサ『マテシス』(1992年)

 

人間が母語を獲得する過程をのべた歌だ。生後しばらく、人間はただ泣くだけである。数か月後に、アー、ウー、バウバウなど意味のない声すなわち喃語を発するようになり、やがて「おいしい」「これ」など意味のあることばを初めて発し、一歳のころから片ことをしゃべるようになり、二歳になるころには簡単な会話ができるようになる。

 

もしもあなたの母語が日本語だとしたら、しゃべり始めたときのことを思いだしてほしい。文法で苦労したなどという覚えがあるだろうか。外国語を習得するときはたとえば、主語は三人称単数だからsを付けなくちゃとか、giveの過去形は何だったっけとか、いちいち考えないとことばが出てこない。でも日本語を習得するときは、文法など誰にも教わらないのに、「気が付いた時にはすでに」しゃべっていたのだ。不思議といえば、これほど不思議なこともない。歌は、こうした母語獲得の不思議さを平明なことばでズバリといった。核心をいいあてられた爽快感をおぼえる。

 

〈気が付いた/時にはすでに/しやべつてた/日本語だから/気付かなかつた〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。三句で切り、二つの文を置く。三句は「しやべつてゐた」とせず、しゃべり言葉ふうに「しやべつてた」とする。もともと短歌は気づいたことや思うことを述べる詩なので、「気が付く」や「思う」は、取り扱い要注意語だ。下手に使えば間が抜ける。歌は、その「気が付く」を二度も使って成功した。下句「日本語だから気付かなかつた」のは、発音や文法で悩まなかったからだ。外国語だったら、しゃべる前から気付いていただろう。

 

日本語母語話者としていまこども時代を振り返ると、自分のしゃべっているのは「ことば」であって、「日本語」ではなかった。やがて、「外国語」というものがあることを知るのだが、それがどんなものなのか見当がつかない。外国人が外国語でものを考えたり感じたりできるということが、理解できない。だって、おなかがすくときは、おへその周りのこの「おなか」が「すく」のだ。「おなかがすいた!」という以外に、いいようがない。

 

ときどき夢想する。もしも自分が「気が付いた時にはすでにしやべつてたロシア語だから気付かなかつた」り、「アラビア語だから気付かなかつた」りする言語環境に育っていたら、どんな人間になってただろうと。日本語で人格形成したいまの自分とは、ずいぶん違う性格なっていたかもしれない。

そんな夢想は、香川ヒサによって砕かれる。

 

生きてゐる間はせめて思ひたい他の生き方あるかもしれぬ

香川ヒサ「短歌研究」2013年6月号

 

「せめて思ひたい」のは、そんなことは金輪際ないからだ。今の自分以外に、「ありえるかもしれない、今よりちょっとすてきな自分」というものはなく、今までの生き方以外に、「こうだったかもしれない、今よりちょっとましな生き方」はなく、それはこれからも同じことなのだ。今の自分、今の生き方が、これしかない「ほんとうの自分」であり「ほんとうの生き方」である。五句三十一音の中に人生の真実あり。