竹山 広『空の空』(2007年)
敗れたるこころに誓ひ合ひしこと純粋にしてながくつづかず
全九州を暴風圏にをさめたる台風の目のなかなる急須
まちがひと咎めても咎めてもかかりくる電話のごとく或日死は来む
無尽講のご馳走の席にをりたりきめでたしやわが記憶のはじめ
欲のごとく祈りのごとく来て去りしかずかぎりなきあしたとゆふべ
ああこれが一生なのか輪ゴムにて狙ふ相手もいつよりかゐず
素裸の体重を眼にたしかむるときたましひは足を揃ふる
格ということだと思う。『空の空』は、著者87歳の年に上梓された竹山広の8冊目の歌集。生真面目さとユーモア。ともにそれ自体に危うさがあるが、竹山広というひとりの作家の格が、それをよいかたちで具体化しているのだと思う。そして、生真面目さもユーモアも、あるひとつのもの/ことの別の側面なのだとも思う。竹山の作品が、確かにそれを教えてくれている。
コマーシャルのあひだに遠く遅れたるこのランナーの長きこの先
テレビでマラソンか駅伝競走を見ているのだろう。「コマーシャルのあひだに」。民放であれば、コマーシャルが入る。マラソンであっても駅伝競走であっても、当然入る。その間、競技を見ることはできないけれど、競技は進んでいる。「遠く遅れたるこのランナー」。コマーシャルが終わると、トップあるいはトップ集団からひとりのランナーが遅れていた。たった数分のあいだに起こった出来事。それに立ち会うことができなかった。できなかったがゆえに、より大きな出来事として〈私〉の目の前にある。「遠く」がいい。ランナーに寄り添う〈私〉がいる。
「長きこの先」。ああ、と思う。ランナーは、すでに敗者なのだ。この静かな断定が、竹山のものなのだと思う。
あるひとつのもの/こと。それは、誠実さだと思う。それは、厳しさが支えている。