金井秋彦『金井秋彦遺歌集』(『金井秋彦歌集』所収)(2013年)
1923年(大正2年)生まれの金井秋彦は、2009年2月16日、85歳で亡くなった。渡辺良、馬渕美奈子、さいかち真らの努力によって、今夏、『金井秋彦歌集』が刊行された。『禾本草原』(1957年)、『掌のごとき雲』(1978年)、『水の上』(1980年)、『捲毛の雲』(1987年)の4冊に、1986年から2004年の作品『金井秋彦遺歌集』が収められている(『禾本草原』『捲毛の雲』は抄出)。
十日臥し今朝起きあがり歩みきぬ風孕み走る帆の群が見ゆ
シクラメンの花茎こぞりたつなかに老いそむる花捩れてまがる
穏やかに反芻している今朝の海茫々と老いてゆく顔に似て
干竿に結いし紐が抑圧者の手の影に似て窓にうつれる
朝明けて何の異変(かわり)もなき窓に桜の大樹の葉がふるえいる
鶏のがらのように頸椎が写るフィルム見つつ若き医師何も言わざり
食べるもの求めて二日に一回はまて葉椎並木を行かねばならず
欅並木しんしんと息づく晩夏の街覚束なくも耐えて歩めり
向い家の屋上の柵をざぶざぶと洗うように今日の秋空青き
門に立ちて手を振るは懐かしき顔なれど誰か判らぬことに怯えし
『金井秋彦遺歌集』から10首を引いた。老いや病による衰えや苦しみを抱えながら、金井は生の痛みや困難を知的にことばにしていく。抑制された表現は、しかしいわゆる定型とは別の、厚みと重さのある韻律を組み立てていく。
今日は水出でぬ噴水の渇きいてあからさまなる空間が見ゆ
「今日は水出でぬ噴水の渇きいて」。噴水の水は、いつも出ているとは限らない。たまたま通りかかったのか、わざわざ訪ねていったのか、あるいは自宅から見えるのだろうか。そうした状況はわからないが、今日は水が出ていなくて、噴水が渇いている。「今日は」ということは、噴水はいつも見ているものなのだろう。〈私〉にとって、近くにある存在。「あからさまなる空間が見ゆ」。だから、「あからさまなる空間」とわかるのだ。
私たちの生活の場である都市は、さまざまな装飾や演出がなされている。噴水は、その小さな装置のひとつ。そんな小さな装置が止まっただけで、空間があからさまに見える。私たちは、そのなかで生活を営んでいる。
一首は、何も批判していないし、何も摘発していない。日常のちょっとした出来事をメモした、そんな表情をしている。だから、いいのだ。
ひとつ葉の露しばし冬陽に輝きて今日の寂しき想いを飾る
腰に巻くパットをはずすとき触るる妻のゆまりの温かくして
伊吹山(いぶき)より伊豆沖へ流れゆく雪雲の帯が風の日は遠空に見ゆ
一冊は、こんな3首で閉じられる。穏やかで清潔な佳作だ。
編集部より:『金井秋彦歌集』はこちら↓
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