黄昏は雲より水へ溶けゆきてそのままうたふ川となりたり

築地正子『菜切花』(1985年)

 

築地正子(ついじまさこ)は、1920年の明日1月1日に生まれ、2006年1月27日に86歳で死去した。

 

〈黄昏は/雲より水へ/溶けゆきて/そのままうたふ/川となりたり〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。さきほどから雲にあった黄昏の色は、いま水へ落ちて溶け、すると黄昏色を帯びた川は、そのままうたう川となって流れはじめた。

 

水に溶けるのが「夕焼け」や「夕映え」でなく「黄昏」なのは、作者の美意識によるだろう。夕焼けほど手放しの華やかさではない。でも夕闇ほど暗くない。また「黄昏の色」が溶けるのではなく、「黄昏」そのものが溶けるのだ。人生の黄昏というイメージが重なる。

 

上句に「黄昏」「雲」と画数の多い漢字を置き、下句は「川」のほかを仮名にひらいて、一行の長さを引きのばしつつ字面をやわらげる。「そのままうたふ川となりたり」。ふわーっと川がながれてゆくような、こちらも川に溶けて運ばれてゆくような感覚を、読み手はおぼえる。

 

歌が一義的に伝えるのは、黄昏どきの川の景だが、二義的には作者の短歌観を伝えるだろう。短歌とは、黄昏の色が溶けて川になったもの、それがどこまでも流れてゆくもの。その川は同時に、〈わたし〉自身の姿でもある。「断念」をうたうことの多かった作者は、こんな歌も書いた。

 

ところで、冥界から呼びもどすことができるなら、この人に聞きたいことが一つある。

 

卓上の逆光線にころがして卵と遊ぶわれにふるるな

築地正子『花綵列島』(1979年)

 

作者の代表歌だ。印象鮮明であり、私も初めて読んだときから忘れられない一首だ。ただ、結句の「ふるるな」がわからない。辞書によれば、禁止の終助詞「な」は活用語の終止形に接続する、ということになっている。動詞「ふる」の終止形は「ふる」だから、「ふるな」となる。なぜ連体形の「ふるる」に接続するのか。「ふれるな」ならわかる。動詞「ふれる」は「ふれる」が終止形だ。いずれにせよ、築地が使った以上、何らかの根拠があり、浅学寡聞の身が知らないだけなのだろう。それを尋ねてみたいのである。

 

最終回となった。
途中、リレーのバトンを落としてしまったが、何とか拾いあげて走り通すことができた。一年間読んでくださったあなた、そして出会った多くの歌に感謝する。

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