前田康子


熱もたぬ夕赤ひかりしたたれり馬刀葉椎のしみらの葉群

阿木津 英『黄鳥』(2014)

*馬刀葉椎に「まてばしひ」のルビ

 

馬刀葉椎(まてばしひ)はどんぐりの木の一種で、楕円形の立派なドングリが秋には木の元にたくさん落ちている。そのドングリを手のひらでずっと磨いていると、顔も映るほどぴかぴかになってちょうどお菓子のチョコボールのようになる。それがおもしろくて何個も拾って磨いたことがある。

この歌の「熱もたぬ夕赤ひかり」は秋の夕暮れの光。気温は低いが夕暮れの濃い赤い色の光があたっている馬刀葉椎(まてばしひ)の葉群。「しみら」はびっしりと葉がしげった様子を言っている。馬刀葉椎(まてばしひ)は葉の形から木の名がついているが「刀」という字と「赤」「したたれり」で少し違うストーリーも頭の中に浮かぶ。

何度も読んでいると「しみらの」という言葉の語感が強くあらわれてくる。この歌ではみっしりと葉が繁っている状態を表している。万葉集には「あかねさす昼はしみらにぬばたまの夜はすがらにこの床のひしと鳴るまで嘆きつるかも」という歌があり、昼も夜もずっと恋しい相手をこの(とこ)が音をたてるまで嘆いたことよという意味だが「しみら」も「すがら」も「その間中ずっと」という意味で使われている。そのような古い言葉が一首のなかにねばりを与えている。

 

蛇口締め顔めぐらせば窓外(さうぐわい)に黄に透くあやめ群れ立ちにける

砂埃まきあげて吹く街上に顔のおもての(しし)の冷えたる

 

顔の歌をひいてみたい。一首目はコマ送りで場面を見ているような印象を受ける。上の句のひとつひとつの動作が丁寧だ。初めての場所なのだろうか。手を洗い、蛇口を締め、顔をめぐらすと思わぬ風景が見えてきた。「顔めぐらせば」が無意識に動かしているはずなのに重々しく表されている。外は黄あやめの群生地だったのだ。

二首目は下の句を考えた。「顔のおもての肉」と細かい表現になっている。「顔」も「おもて」も同じ意味があるが、顔の表面ととった。その表面の肉が風にさらされて冷えている。何か表面の肉(肌)が自分の意識から遠いところにあるような、冷たくなって仮面のように冷えてしまった印象をうける。

 

浮きくさを揺りかへしつつなぎさべにひかり(とろ)くる波をおくり来

吹き消すと炎ふくとき蝋燭の炎にちからありて波だつ

 

一首目にはなにか甘美なものを感じる。上の句では浮草が水面に何度も揺り返されている様子がある。そのゆらゆらとしたところに光が溶け出した波がまた送られてきている。主体は「風」であろうか。水面を揺らす主体は何も描かれていないが、動詞の使い方が独特でうっとりと安らぐような一首だ。二首目は細かな場面を描写している。吹き消そうとして消えなかった炎を詠んでいるととった。「炎に力ありて」というところが面白く「波だつ」でさらに動きを与えている。吹く息に抗って力強く波立った炎。一瞬の炎の様子を「波だつ」と水性のもので表したことも面白い。