一ノ関忠人


すすき原ほほけ初めたる山のなだり 父あゆみゆく わが歩みゆく

藤井常世『鳥打帽子』(2013年)

 

藤井常世の今のところ最後の歌集である『鳥打帽子』(砂子屋書房)から今日の一首は選んだ。歌集の発行日は2013年8月1日。第9歌集になる。収められた作品は、2002年秋から2007年春頃までとある。つまりまだ歌集になっていない作品がその後におそらく二冊分ほど残っている。そういう計算になる。

なぜこんなことを言うかというと、第9歌集『鳥打帽子』を刊行してから三月ほどしたところで突然訃報が届く。まさかという思いだったが、昨年10月30日急性心不全のために藤井常世は亡くなった。72歳。夜中机に伏してそのままの死と聞く。現代短歌文庫『藤井常世歌集』、さらに第一歌集『紫苑幻野』の文庫版を出し、そしてこの『鳥打帽子』――常世さんも集大成というか、原点を確認して、あらたな展開を考えているのだろうと私は思っていただけに、その死には驚くというより、無念を感ずるよりなかった。

その前年に成瀬有を亡くし、それから一年経たないところで藤井常世の死、親しく私の作歌を導き、支えてくれていた存在が消えてゆく。そういう年代なのだとは思いながら、かつて秦恒平が「死なれた」という語を使って、親しきものの死の悲しみと鎮魂を語っていたことを思い出し、短歌にかかわって以来の恩義をどのように返したらいいか。歌い続けることしかないとは思って歌い、しかし鎮魂の方途に迷い続けている。

私情に過ぎたようだ。藤井常世の短歌である。

藤井の短歌は激しい。

 

無礼きらひ鈍麻のこころなほ嫌い夏草むらに沈みて叫ぶ

夜爪切りて嘆くものなし 灯を消してのちにも保つ無頼のこころ

踊りのやうなしなありとわが歌を評せし人をいまだも蔑す

 

『鳥打帽子』にも、こんな歌がある。いかにも藤井常世らしい感情が歌われている。こういう歌人であった。だからこそ信頼できたし、憧れでもあった。

この歌集では、父への思いがもっとも印象に残る。主宰誌「笛」において、長く父藤井貞文の短歌を注釈鑑賞してきたことも、父と作者との関係をより親しいものにしたのかもしれない。

 

明治びと父はただしくいましきと思ひもつれて九段坂くだる

文官として征きしと聞きたるが父もまたたたかひに苦しみしひとり

父に何も聞かざりしと思ふ半生を歌もてたどりそのこころに逢ひぬ

 

藤井貞文については、8月26日の「日々のクオリア」を見返してほしい。歴史家であり迢空門の歌人であった。長女である藤井常世は、父歿後全歌集を編集刊行、さらにその歌をていねいに鑑賞していた。その鑑賞の中でこうした歌が生まれる。

服装には無頓着なその父が、ときに鳥打帽子を被ることがあった。ハンチングである。「特別な布や色ではなく、地味なものだったが」、「脂が染みて裏地が切れても、大切にしていた。」

「『折口先生の真似なのよ』母は言った。」父の師である「先生のハンチング姿は、真似しても楽しかっただろう。純粋に先生を慕った思いがそこにあった」。

歌集の「追い書き」にこのようにあり、さらに亡き父を回想する。「箱根・仙石原を訪れた二〇〇六年の秋。穂すすきが白くいちめんに揺れている中に私は一人で立っていた。波うつ穂すすき、あおく晴れた空。その背の高い穂すすきの中を父が歩いてゆくのを見た。」

「追い書き」はさらに続く、「もう遠い昔になってしまったか、先生と父はこのすすきの原を歩んだことだろう。そのころはもっともっと広い原だっただろう。/私は父とここに来たことがないのを悔やみながら、父の鳥打帽子ならぬキャスケットを空に投げ上げた。」

藤井常世は、美しい文章の書き手である。それがよく分かる「追い書き」だろう。

今日の一首は、こうして歌われた中のものである。同じ一連にある歌を引いて置く。

 

うち靡く仙石原の穂すすきに見え隠れ父の鳥打帽子

あきらけく晴れたる秋は 帽子投げ受け止めてあそぶ帽子の遊び

満月は見えねどこよひ雲の上に光すがしきうたげかあらむ

 

伸びやかな明るい歌が増えて来ていた藤井常世の短歌、その死は残念ではあるが、全作品を纏めて読むことができるようになることを楽しみにしている。