前田康子


五種類の薬いつきに飲みたれば絵の具溶くごと胃の腑はあらむ

江田裕之『風鶏』(2003)

 

先日、作家の赤瀬川原平さんが77歳で亡くなった。その記事の中で、最後まで書かれていたコラムの一文が紹介されていた。

 

病気はチャンスだと思う。(略)一定期間、病気の世界を通り抜けて行く。いわば病気観光、病気旅行だ。

病気をくぐり抜けた人の話は面白い。(略)病気でなくて貧乏もそうだ。貧乏を知らない人の話はいまひとつ味わいがない。

 

毎日新聞の記事からひいた。赤瀬川さんの病名は胃癌と脳卒中だったが、その病気を王貞治、長嶋茂雄氏にたとえ、「両方やっちゃいました」と周囲をわらわせていたという。最期まで赤瀬川さんらしさを貫いた生き方だったのだ。なかなか誰しもこんな風にいられる余裕はないだろう。だが、赤瀬川さんの生き方は病と戦っているひとをちょっと楽にさせる。

 

赤瀬川さんの生き方をこの歌集に重ねながら読むところがあった。江田裕之もまた、あとがきによると長く闘病生活を続けていた。冒頭の歌はその中の一首。五種類の薬を毎日飲まなければならない。たくさんの薬を飲みつつ、体調を気にしつつ、寝ているとき以外、自分は病人であるということを意識しながらの生活である。しかし作者は辛さばかりを前面に出さない。この歌の下句、展開が大きくあって、見えない胃の中を想像してみている。五種類の薬がマーブル模様のように美しく胃の中で溶け合っているのが見えてくるようだ。

 

おおよそは水よりなれる現身に固く鋭き爪の生えいづ

ストレッチャーに乗せられ父はオペ室を足から先に押し出され来る

抜糸して十日を過ぎし傷跡(きずあと)に発芽するごと糸のいでくる

ほきほきと折られし菊の花首にメガネをかけぬ父が埋もるる

 

これらの歌を読むと肉体に対しての鋭い意識や感覚が感じられる。一首目、人間の身体はその半分以上が水分でできているが、そのふにゃふにゃとした身体に手足二十の堅い爪がついている。あらためてこのように詠まれると、ととても不思議な気持ちになる。「鋭き爪」は獣ののようにわが身を守る証に見えて来る。二首目は手術を終えた父を詠んでいる。下句を読むと荷物のように運び出される父がいる。「足から先に」というところが妙にリアルだ。

三首目は自らの手術体験を歌にしている。手術のあと抜糸したのにまだ残りの糸があったのだろうか。「発芽するごと」という比喩が印象的だ。新たな命がそこから生えてくるように糸が皮膚からでてきた。自らの病にどこかとても冷静である。

四首目は養父の葬儀の場面。これも下句に注目した。養父は常にメガネをかけていたのだろう。柩の中の顔はメガネをかけていなかった。見慣れていない素顔を死に顏であらためて見ることとなった。

 

窓少しひらきてあれば音たてて海よりの風縦長に入る

暮れ早き夕べを母と竿かざし柚子を穫りたり明かり消すごと

 

これらの歌も表現に鮮やかさを感じ、場面が読後に静かに胸にひろがる。