前田康子


いやべつにああさうだつけ聞いてないそれでいいじやんもう眠いから

藤野早苗『王の夢』(2014)

 

先日、宗教勧誘員のような女性が来て「人生で成功するということはどんなことだと思いますか?」と聞いてきた。ちょうど日本人のノーベル物理学賞が決まった頃でそういう話をしたい感じだった。その時、私は娘の学校のことで頭がいっぱいで、人生でやり遂げるのは大切な人を守るということだと応えた。社会的に成功してもそばで苦しんでいるひとがいたらそれはどうだろう・・とふと思ったからだ。女性は、へ?というような顔で帰っていったが、私にはその時、娘に何もしてやれない思いで頭がいっぱいでついつい感情的にそんなことを激しく言ってしまった。

 

藤野早苗のこの歌集を読みながらそのようなことをふと思い出した。冒頭の歌は子供の台詞をそのまま歌にしてある。この歌集のテーマの一つは、一言で言えば「不登校」ということで、子どもも親も苦しみもがく日々が詠まれている。苦しむなかに自傷行為などあり、心配と不安で声をかける母親に娘が応えるのは、誰の声も聞きたくないというような、こんな台詞ばかりなのだろう。悪循環の関係が家庭の中で起こり、特に母親は自責の念にかられてしまう。

 

謂れなき無視とあざけり極まりて六月とある日子は壊れたり

混沌を見よと誘ふごとく子の通学カバン暗く口開く

だいじやうぶ部屋の扉をうすく開け眠るこの子はきつと大丈夫

 

一首目哀しい歌だ。自分の子だったら耐えられないだろう。しかし現実にはありがちなことだ。「とある日」プツンと何かが切れて壊れてしまったわが子。そこで初めて親は事態の大きさに気付き驚く。また二首目では、スクールバッグの中をのぞけばどこまでも暗く、そこにはかり知れない混沌があることを知る。作者が子供の心に寄り添おうとしていることがよくわかる。私も以前、子どもが毎朝歩いていた通学路を同じように一人で歩いていみて、とても複雑な気持ちになったことがある。三年間、楽しく通う日もあっただろうが、またそうではない日もあっただろう。見過ごしていた何かを見たような気持ちにその時になったのだ。

また三首目も細やかに子供を見ていて信じようとする気持ちがある。扉に鍵をかけたりして孤立してしまわず、少しだけ開けて眠っている子。親や家族とどこかでつながろうとしているのが感じられる。結句、自らに言い聞かせるような表現である。

 

湯の中に蒟蒻狂ふほど煮つつ画面に見をり三歳の死を

育児放棄(ネグレクト)炎暑の部屋に二人子を死なしめし母のなまへは早苗

 

その他にも、このような歌がある。2010年に大阪で起きた育児放棄による餓死事件について詠んでいる。一首目はニュースに驚き放心しているのか、もしくは茹でられている蒟蒻が怒りの比喩のようにも表されている。また二首目ではその犯人が自分と同じ名前であったことを歌に詠んでいる。ニュースで名前が読まれるたびに、作者はまるで自分が責められているような気分になったかもしれない。育児においての虐待のニュースはあとを絶たないが、ひょっとしてもし自分がそんなことをしていたら、ということを考えることもある。