一ノ関 忠人


むさし野は ゆき行く道のはてもなし。かへれと言へど、遠く来にけり

釈迢空『海やまのあひだ』(1925年)

 

11月29日に紹介した吉田松陰の辞世の短歌「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」を読むと、釈迢空(折口信夫)のこの歌が思い合わされる。さらに『伊勢物語』12段の娘を盗んだ男が武蔵野へ逃亡した際に女が詠んだ「武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」が連なって思い合わされる。

『伊勢物語』における武蔵野、ここでは愛の逃避行の証しと位置づけられるが、女を盗み出して東国に逃げる話は、そのほとんどが逃げる途中で命を落とすか捕縛される。あるいは辺境での生活環境の苛酷に耐え難く絶命するというように、きわめて悲惨な結末になるのが、共通した型になっている(鈴木日出男『伊勢物語評解』2013年)。『更級日記』にとりこまれた竹芝伝説では、東国に皇女を連れだした男に幸運が訪れるが、それは例外であり、古典の物語世界での武蔵野は「負」の価値を負わされた土地であった。

松陰の歌も迢空の歌も、勿論物語ではない。松陰にすればよりリアルに死地である。しかし、そこに古典のイメージの揺曳がなかったかどうか。迢空の場合は、おそらくその意識が働いているだろう。その上、迢空には強い国学意識があった。幕末の国学者へのシンパシーが存在している。迢空が松陰を評価するとは思えないが、松下村塾の役割についてはなにがしかの関心を持ったとしても、迢空の「鳥船」や門弟への教育法を考えれば、そう不思議ではないだろう。それ以上に、この松陰の歌は、あまりにもよく知られていた。

迢空のこの歌には、「親の心にそはないで、国学院にはひつた年の秋」二首と左注がある。もう一首は次の歌だ。

 

夕づく日 雁のゆくへをゆびざして、いなれぬ国を また言ふか。君

 

迢空が国学院に入学したのは、1905(明治38)年9月。折口の家は三代つづいた医を本業とした生薬商であり、迢空も医学部への進学を求められていた。しかし、家族の期待に反して試験間際に国学院への入学を決めてしまう。「自歌自註」(新折口全集31巻)には、「家族の失望を見残して、東京に上つた。それだけに此二首には、親達の心に甘えてゐる処もあり、自身亦、本心以上に悲しんでゐる部分が出てゐる。」

このように言った後に「歌を昔風にしたてる事を、幾分か知つてをつた私は、明治末の東京の生活を、まるで中世か近代の江戸郊外のやうに詠みなしてゐる」とこれらの歌を解説する。上句に歌う武蔵野風景を、実景というより古典的に仕立てたということであり、また下句についても「実際の感情を」「古典的に翻訳してゐる」と言う。つまり実際よりも古典的な劇性を重んじている。だからこそ、私に『伊勢物語』や松陰の辞世が連想されるのであろう。

二首目の「いなれる国」は、帰ることのできない郷里であり、この語に対しては「如何にも甘えた言ひ方で、今でも冷汗を流す」と晩年の迢空は否定的だ。しかし当時も考え抜いて結局動かせなかったと解説している。二首ともに「小説為立てと言ふ味が取れない」ことが問題であり、とくに二首目の「また言ふか君」については迢空の「仮想」であることを告白する。

歌を古典的に考える――この頃の迢空の短歌への姿勢であった。「さういふ私の表現につきまとうてゐる私の生活気分を、まづ知つてもらふ必要が、良きにつけ悪しきにつけある」と迢空は言う。アララギへの接近はまだ先の迢空若き日には、古典的な味わいの物語を取り込むような歌い方がふつうであったということだ。服部躬治に歌を見てもらっていた時代の短歌である。

「一方に、自然派の評論を読み、どうかすれば、さういふ小説も書きかねない心持ちで」いながら、歌だけは別のものと垣根を作っていた」と反省しているが、この一首には新たな地へ訪れ、新しい学問追窮へ進もうとする意志が存在することもたしかであろう。ここから迢空はみずからの歌の世界を、また学問の世界を切り開いていったのだった。その覚悟の源泉がこの歌である。