一生を直立歩行と決められて少年がカナリヤの籠さげてゆく

中津昌子『遊園』(1997)

 

息子が二十歳になり、来月は成人式だ。大きくなったとは思うものの、今から就職や家庭を持つことなど考えると、これから先の方が心配は多い。自由にのびのびと育てようと思いつつ、結局ああだこうだと子供に理想を押しつけ、がみがみと言ってきてしまったようにも思う。いや、もっと厳しくすればよかったとも思う。

この歌を読んで子供が小さかった頃の子育てをふと振り返ってしまう。「一生を直立歩行と決められて」は、一瞬、え?と思うようなフレーズだ。こんな風に言われると人間に「直立歩行」以外の歩き方がどこかにあるようである。なぜか頭にはオオカミに育てられたオオカミ少年の姿が浮かぶ・・・。人間に生まれてきたからには人間が食べるものを食べ、二本の脚で歩いていくのは当然のことだ。少年は自由にはばたき、馬のように駆け抜けることを夢みることはあっても、現実にはどこまでも直立歩行で道を行くしかないのだ。

 

靴ひもにかがむ子の背を踏み台にある日は空へ分け入るわたし

 

こんな歌もある。現実にこのようなことはしないだろう。しかし作者は靴ひもを結んでいる子供の背を見ながら、こんな空想を楽しんでいるのだ。子どもが小さなうちは子育てに時間をとられあっという間に一日が過ぎていく。世の中に自分だけが取り残されていくような気分になり、そのような歌ばかり私は詠んでいたが、中津の歌は逆の発想で、子どもよりも自分が空へ飛んでいこうとしている。大胆で自由な発想が楽しい。

 

切り傷がすっとはしるに似て午後の教室にいっぽんの手が上がりたり

りんごむく音はさむしと両肩を抱く子のそばに刃をすべらせる

 

どちらもどきりとする歌だ。一首目は、痛々しさのようなものが体に走る感じがする。授業中にまっすぐにあがった子どもの手だろう。けれどそこに作者は安心し切れない別の世界を見つめている。学校という混沌とした場所、そこには見えない傷がいくつも走っている。そこで来る日も来る日も生きていくしかない子どもたちのことを思っている。

また二首目はりんごの皮を剥いている場面だ。さりさりと剥けていく音には確かに寒々しさがある。肩を抱いて縮こまっている子どもの横で、それでも作者は皮をむき続きける。「刃をすべらせる」に刃が子どもの身体をすべっていくような危うさがある。

 

蛇口には水が止められていることのその背後なる大量の水

 

本当にその通りだ。ある日、蛇口が我慢しきれなくなって、大量の水を噴き出すような幻想をこの歌に感じる。こういう歌を読むと、自分はどこまで日常の見えない部分が見えているだろうと思う。それを歌にするのが歌人の役目のひとつだ。