一ノ関忠人


南の阿波岐の浜に我在りて想ふ事なし年暮れにけり

檀一雄『檀一雄歌集』(1978年)

*南に「みんなみ」、阿波岐に「あはき」のルビ。

 

小説家である檀一雄(1912~1976年)の没後、一冊の歌集が刊行されている。関口弥重吉編『檀一雄歌集』(皆美社1978年)である。収録歌数49首、1ページに一首、後半は「註」として一首一首に編者による参照資料が掲載されている。横15cm縦17㎝変型判115ページ。表が薄いブルー裏が朱色の横開きの函に包まれた洒落た装幀。限定500部、私の持っている本は451番。私はただの読書好き、愛書家ではないが、この本は大切にしている。

編者は、「後書」に「この歌集は檀先生の生前、能古ノ島にうかがって、私の編集で本にすることを、先生にお許しいただいたものである」と書いている。晩年の檀の周囲にいた人物であるようだ。

檀が放浪者のごとく日本のみならず世界を旅する人であり、『檀流クッキング』で知られる料理、食への愛着が深いことはよく知られていた。今日のこの一首は、放浪者・美食家檀一雄を示した歌である。

編者による註として、「……福岡から熊本、熊本から高森、高千穂と抜け、延岡をまわり、日向の阿波岐の浜にたどりついたのが、大晦日の三十一日だ。折りから海はシケていて阿波岐の浜の安宿のボラの刺し身はしみじみと歯にすびいた。」(「わが半生の元日」昭和四十年十二月)が引用されている。

「阿波岐浜」は、宮崎県阿波岐町の海辺。そこの宿に大晦日を過した。その折の感慨がこの一首である。放浪に行き暮れたような孤独が感じられないだろうか。

阿波岐浜は、黄泉の国にイザナミを訪ね、その死の姿をみてしまったイザナギが逃亡の果てに地上に戻る。そこで死の穢れを祓う地が、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」である。

この旅が、いつのことか私には分からないが、檀は最初の妻リツ子を亡くしている。亡き妻を慕って黄泉の国を訪れるイザナギは、檀そのものではないか。ここに歌われた「阿波岐浜に我在りて」には、亡き妻への思いが重なっていないだろうか。神話のイザナギは、ここでは妻の死穢を憎んでいるが、檀の場合は恋着ではあろうが。いずれも妻が戻らない、残された男の孤独。その寂しさが、この歌の行き暮れたような感懐につながっているのではないだろうか。私にはそう思われる。

ちなみに「あはき」は、『日本書紀』には「檍」とあり、『和名抄』には「橿」、あるいは青木、柏、萩という説もあるらしい(西郷信綱『古事記注釈』)。「何かの常緑樹」であり、ここは「日向」とか「橘」とか「光明や生命を象徴するたたえ言葉をつらねた神話上の名と受けとるべき」と同書に言う。死と生の境にあって、光明の方へ向かう意志がこの地名にはこめられてあり、いまだ孤独に行き暮れる檀にもよき方へむかうそのきっかけを探るようでもあるのではないか。まず年の暮れを越えて、新しき年の光の方へ。しかし、年の暮れの今は「想ふ事なし」、何も考えられないのであった。

この歌集には、『リツ子・その愛』『リツ子・その死』の作中歌が8首収められている。

 

われ在りと肌触れ告げむおのれだに明かすすべなし妻病み果つる

ふるへつつより添ふいのちありといふかぬばたまの夜眼(よめ)暗くしていきどほろしも

妹と植ゑし庭べのさ韮生ひにけりそを取り喰うて羹(あつもの)に泣く

あざらけき玉葱の茎青く切り辛くも堪ゆるいのちにてあらし

 

ここまでが『その愛』から。次の二首が『その死』にある歌だ。

 

荒磯のうしほに濡るる赤き雲丹の赤きを妹が口にふふまする

おしなべて月のくだくる波のむたみだるるうれひありつつ憩ふ

 

どうだろう。病む妻を愛する作者の不安や哀惜が、これらの歌にはこめられている。

歌集には、ユーモラスな歌もあり、真摯にいのちに向き合う歌もある。数は少ない檀一雄の短歌だが、古風な詠みぶりが意外でもあり、さもありなむとも思う。

 

我はもや親が賜びにしきんたまを入道雲とうちはらしたり

たまゆらの草の葉末の雲に宿る月の光のいのちうれしき

 

ユーモラスな歌と真摯にいのちと向き合う歌である。