佐佐木幸綱『ほろほろとろとろ』(2014)
アウシュビッツを実際に訪れて詠まれた歌で、この一連の五首だけ、一首の中に複数の一字空けをし、言葉を無理に切断した表現となっている。本来ならば「ガス室の跡なりという崩れたる煉瓦昨夜の雨にしめれり」と読みやすい一首だが、それでは作者は納得行かなかった。言葉の意味が切れるところで切るのでもなく「という」や「崩れたる」、「煉瓦」というひとつひとつの言葉をつぶしてしまう切り方で、読むときは口ごもりながら読んでしまうのだ。こんな風に作られると一度読んだだけではわからず、二、三回は一首を読む。意味をつなげようと頭を使って読み、次第に意味がつながると、その背後にある作者の気持ちを追いかけて考えようとする。
満 載の男女子供 を降ろしたり駅はなけれ ど鉄路は終わり
強制収容所に多くの人を降ろしたビルケナウの線路を詠んでいる。映画などでしか私は見たことがないが、真っ直ぐな線路があり、降りたその先には強制収容所へ続く「死の門」が立っている。「鉄路は終わり」、ここで降ろされるということ、それはもう「死」を意味するということだ。どこにでもあるような線路だが、この世の終わりを見る恐ろしい場所に人を運んできた鉄路だ。
この一連には「ビルケナウ」や「ガス室」という言葉しか、アウシュビッツを表わす言葉は出てこず抑制された表現に、言葉を断裂させる手法が用いられている。この手法は一回性のものかもしれないが成功していると思う。抑制された表現であるから効いている部分があり、定型のリズムでは纏めたくなかった感情の乱れを感じる。
光沢を消し居たりし海に雲切れて光の柱立ちあがりたり
バイオリンを弾く人ときに目を開けてまた目を閉じる水の中のように
このような歌も心に残った。一首目は上の句が印象的だ。光沢のない海は、空が曇っているから海面の反射もない静かな海をおもう。下句もおもしろく、その海へ、太陽の光が雲の切れ間から差し込むのだが、「柱立ちあがりたり」と表している。「光沢を消す」というのも「立ち上がりたり」というのも擬人法なのだが、「光沢がない」や「柱のように光が射す」ではなく、表現に逆からの力の作用が働いていて、迫力を出している。
また二首目は奏者の表情をよく見ていて、ゆっくりと目を開け閉じる時間の豊かさが伝わって来る。初句と結句の字余りが曲の流れが続いていくような余韻を出している。
夕方のごときひかりの中にきて俺は午前の肉体を預く
午前中なのにもう夕方のような光の空だった。上の句の柔らかさから下の句は一転、力強さと男性的なイメージへ変わる。岡井隆の歌集では「僕」という自称が多い。佐佐木幸綱では断然「俺」だ。「我」「私」「俺」「僕」など、自称ひとつで男性の歌はイメージが大きく変わってくる。結句の「預く」はその光のなかに身体をゆだねるような大らかさが感じられる。
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