一ノ関忠人


あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思ひ過ぎたる

石川啄木『一握の砂』(1910年)

 

ぼちぼち今年も押し詰まってきた。この押し詰まった雰囲気が嫌いで、若い頃は年末をおおかた旅に過ごした。12月20日頃から一週間、折口博士記念古代研究所の万葉旅行に参加して、その後有志が京都に集い大騒ぎをして、そこから近江や北陸、あるいは熊野へ出掛けた。奈良橋善司、成瀬有がいた。鈴木正博がいた。倉田千代子、今泉重子……。今は亡き彼らと共に過ごした年末の数日を忘れることができない。短歌を語り、迢空を語り、それぞれの地元の珍味を肴に酒をあびるほどに呑んだ。小浜の宿では、厨房の料理酒まで呑み尽したこともある。能登羽咋の折口信夫、春洋の父子墓をはじめて訪れたのも、鈴木と二人の年末押し詰まってからの一日であった。墓域からの帰りは雪が舞ってきたことを覚えている。

そうして帰ってきた自宅に迎える正月は、なんだか気の抜けたようになって、無為に過ごしたものだったが、さすがに子供が出来た頃から無茶もできなくなってだんだんに旅に出ることも少なくなった。まさに石川啄木のこの歌の気分である。それでも年に数回、妻や家族、あるいは今年は息子と娘べつべつに父子旅に出かけた。病後ということもあるが、ずいぶん大人しくなったものである。そうして今年も暮れる。

今年は、この「日々のクオリア」が最重要課題になった。引き受けた当初は、これほどしんどい日程だとは思いもしなかった。なめていたと言っていいだろう。最初は思いつくところから初めて行ったのだが、そんなものはすぐからっぽになる。それからがたいへんだった。あちらを探り、こちらを探り、何度か書いたことだが、大西巨人『春秋の花』、塚本邦雄『清唱千首』などにすがりながら、何とかここまでたどり着いた。まだ数回あるのだが、ここまでお読みいただいてこられた方々(そんなに大勢いられるとは思われないが、それだけに)にはただただ感謝を申し上げる。時折ネット上に励ましのメッセージなどもあって、これは望外の嬉しい事であった。

この啄木の短歌も、大西巨人の『日本人論争』に示唆を得たのだが、啄木というと折口信夫の『一握の砂』の原本に記した評が翻刻されていたことを思い出した。成瀬有が尽力して、一冊だけ刊行された「折口信夫研究」創刊号(折口信夫会2011年)に掲載された「迢空・折口信夫書き入れ 石川啄木著『一握の砂』」である。若き日の折口が読んで、折口自身の「評価」「評言」等書き入れのある本が、折口の友人安藤英方の元に残されていた。それを岡野弘彦が転写したものが、翻刻されている非常に興味深い資料である。

「石川啄木の改革も叙事の側に進んだものは、悉く失敗してゐる」、「彼は平凡として見逃され勝ちの心の微動を捉へて、抒情詩の上に一領域を拓いた」(「歌の円寂する時」)と評価している折口は、『一握の砂』刊行ほどなく手に入れて、何度となく読み返しながら、その都度評価、評言を書き込んでいた。つまり、それほどに啄木の短歌の価値を見出していたことになる。

 

啄木が廿五すぎてよみいでし異端の歌もかなしかりけり

おどろきにかれがざえをばまもりゐしわがあることもしらずや死に〔あり〕けむ

 

「目次」の次ページの空白に「啄木を悼む歌」として四首が迢空の自筆文字で記されている。そのうちの二首である。巻末には「啄木石川一氏死す/(明治四十五年/四月十三日朝/九時半)」との記載があるから、これらの歌もその折に作られたものであろう。啄木の歌を「異端」と言い、その才能を評価して読み続けていた迢空であったことが分かる。この書き入れ本を精査して、迢空の啄木評価を明瞭にする必要があるだろう。詳しくはテキストに当ってもらうよりないが、たとえば「あたらしき背広など着て」について、迢空は朱印を一つ付けている。評価しているということだ。しかし「末行は一首を平凡ならしめつ」と書き込まれている。末行は「しかく今年も思ひ過ぎたる」である。どう読みますか。

大西巨人のエッセイには、この歌とともに年始の一首として、「何となく、/今年はよい事あるごとし。/元日の朝、晴れて風無し。」(『悲しき玩具』)を紹介している。気持ちの良い一首ではある。

ということで、来年がこのブログの読者にとって「よい事ある」年であることを祈っておきましょう。