半開きのドアのむかうにいま一つ鎖(さ)されし扉(と)あり夫と暮らせり

栗木京子 『水惑星』(1984)

 

この歌を一番初めに読んだのはいつだろう。確かまだ結婚する前だったような気がする。結婚に対する夢をかすかに持ちながら、同時にこの歌の昏さのようなものが好きだった。扉を閉め自室にこもって自分の時間を過ごしている夫には、妻にも入り込めない世界がある。一つの家に暮らし毎日夫を待ちながら、妻は孤独で、この夫に冷たさえ感じる。しかし、ここに結婚という姿がシビアに表されていて、自分の恋愛感情さえも打ち消されていくような気持ちになりながら読んでいた。

短歌を読んでいて面白いのは、まだ自分には訪れていない人生を歌集で体験するということである。この歌のように結婚する前に結婚した人の歌を読み、その気持ちを同じように辿ってみる。出産や子育て、親の介護や死を詠んだ歌にも同一のことが考えられる。小説や映画で味わうのとは違い、一個人の一回きりの体験を同じように歌の中で辿っていき、自分ならどうなるだろう、どうするだろうと考えながら読むことがある。そこで一つの覚悟のようなものを一首が教えてくれるときがある。

 

水面を夫と子の首泳ぎゆくあやつるごとく我は手を振る

 

この歌も少しぎょっとするようなところがある。プールか海だろうか。水面から出ている夫と子の首。のんびりとして休日を家族で過ごしている光景だ。作者はそちらに向かって手を振るが、それが「あやつるごとく」とある。笑顔で家族に手を振りながら、裏側にはひやっとするような思いが見える一首だ。

 

幸せを見せびらかしに日曜の動物園に来て象を見る

 

この歌を読むと、なぜか家族写真の大きく印刷された年賀状を思ったりする。あれは幸せをみせびらかしているわけではないのだが、自分や自分の家族がうまく行ってないときなど、つい羨ましかったり、他人の一家が幸せそうに見えて複雑な気分になったりする。この一首でも作者は、子供と楽しく過ごすために動物園にきた。たくさんの家族が笑顔ですごしているのを見ると、ふとどの家族も、自分の家が一番幸せだと見せつけているように見えてきた。そのなかに同じように自分たちも存在するように思えてきたのだ。

 

思ひ出て手を振るごとく晩秋の陽を噛むごとく観覧車めぐる

 

『水惑星』には有名な「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)」の歌があるが、この観覧車の歌も好きである。「陽を噛むごとく」のところに観覧車がじっくりと回っていく感じと、少しギザギザした形が目に浮かんでくる。最近刊行された、『牧水賞の歌人たち vоl.9 栗木京子』はいろいろな方向から、歌人「栗木京子」を読み解くことができて面白い。「回れよ回れ」の観覧車の歌についての誕生秘話も書かれてあり、なるほどと思った。