一ノ関忠人


あしひきの山の木末の寄生とりて插頭しつらくは千年寿くとぞ

大伴家持『万葉集』巻18・4136(750年)

*木末に「こぬれ」、寄生に「ほよ」、插頭に「かざ」、千年に「ちとせ」のルビ。

 

歳晩年始が近づくと必ずこの歌が思いおこされる。大伴家持の歌日記と思われる『万葉集』後半に収められているから、歌われた場所や時もはっきりしている。この時期、家持は越中の国司として在任中であった。

詞書には「天平勝宝二年の正月二日、国庁にして饗を諸郡司等に給ふ宴の歌一首」とある。750年、千年以上前のことだが、年初のはなやぎが感じられる。

山の木の梢に寄生するやどり木を採って、頭にかざすのは、その生命力に千年のいのちを祈ってのことだ。

欅・榎など落葉樹の梢に寄生して、冬も緑の円球型を保ち、早春には黄色の小花を付け、やがて真珠のような実になる「やどりぎ」を古く「ほよ」と言った。冬のあいだ葉を落とした枯れ木に、円球型のそこにだけ、木の魂を集中したようにみえる寄生木(やどりぎ)は、神秘的な力がこもっていると珍重された。日本のみではない。クリスマスの飾りとしたり、ゴールデン・バウ(黄金の枝)として尊んだ。この家持の歌では、その寄生木を頭にかざして新年の宴会をことほいだのである。

『洛中生息』の著者、京都の町家に育ち、今もその町家に住むフランス文学者であり、洒脱なエッセイスト杉本秀太郎に、京都郊外に寄生木を採集に出掛ける卓抜なエッセイがある。いまそれを探そうとして、本の山から見つけ出すことができないのだが、宿木、これも「やどりぎ」と読む、の魅力を語って止まない一篇。ぜひ読者の方々の一読を望む。

この歌の次には、「判官(じょう)久米朝臣広縄(ひろなは)の館に宴する歌一首」が掲載されている。同じく大伴家持の歌だ。左注に「同じ月五日に」とあるから、前の歌の三日後、つまり新年の宴は、あいついでおこなわれている。越中の守となって五度目の春を迎えた家持がもてなし、もてなされ明るいはなやぎの絶頂が目に浮ぶようだ。広縄の館に歌われたのは、次の一首である。

 

正月(むつき)たつ春のはじめにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも 巻18・4137

 

新年の笑顔のうたげ、まさにこの時節のものである。

そして『万葉集』において年次の分かる最後の歌が、これも家持の正月をことほぐ一首であった。

 

新しき年の始めの初春の今日ふる雪のいや頻(し)け吉事(よごと) 巻20・4516

 

詞書に「三年(天平宝字)春正月一日、因幡の国の国庁にして、饗を国郡の司等に賜へる宴の歌一首」とある。天平宝字二(758)年6月16日に因幡守に任ぜられ、その翌年に赴任地でこの歌を詠んだ。そして、この歌が『万葉集』最後であり、大伴家持の残された最後の歌である。この後も家持は宮廷に仕え、参議、中納言従三位、春宮太夫などを歴任、陸奥按察使鎮守府将軍で没した。延暦四(785)年8月28日、68歳という。

『万葉集』最後の歌から、二十数年、このあいだ家持が歌を作らなかったとは到底思えない。しかし、歌は残されていない。家持の没後二十余日葬送もすまないうちに、藤原種継暗殺事件に連座したとして除名、子の永主は流罪。名誉が回復されるのは、それから二十一年後のことであった。政治家としては、どこか不遇であった印象がある。『万葉集』以後の歌が残されていないのも、そうした事情が影響しているのかもしれない。

私が担当する「日々のクオリア」も、この家持の歌と共に終わることになる。うかうかと引き受けたこの週三回の一首鑑賞は、私の短歌への情熱を試されるかのような苦行であった。まさに修行のごとき一年、あらためて日本語人にとっての短歌の浸透力の広がり、深まりを知ることになった。この場を提供してくださった砂子屋書房社主田村雅之氏、原稿の入力等をご教示頂いた高橋典子さんに感謝致します。また、週の半分を担当し、まさに同志ともいえる前田康子さんにもあらためて感謝申し上げたい。私が時代遅れの古典や近代、また歌人外の作に気儘に手を伸ばすことができたのは、前田さんが着実に現代の短歌シーンを捉えてくださっていたからでもある。お目に掛かったことは一度もないのだが、あらためて感謝を申し上げたい。そして何より、このコーナーをご覧くださった方々へ一年間の感謝を申し上げます。

来年が良き年でありますように。