浴身のしづけさをもて真昼間の電車は河にかかりゆくなり

水原紫苑 『びあんか』(決定版)(2014)

 

1989年と1992年にそれぞれ出版された、『びあんか』と『うたうら』が、今年新たに二冊が一箱に入って刊行された。水原さんといえば先日、京都の現代歌人集会秋季大会において、同じく今年出された『桜は本当に美しいのか』をもとに、古典和歌を中心に日本人の桜に対する美意識の変遷を語ってもらった。古典の歌人を語る時の眼差しはまるで懐かしい旧友を思い出すようで、堅苦しくない語り口のなかに大きな時の流れが見えた。会の休憩時間には、著書にサインを求める長い列ができ、和服姿の水原さんはさらさらと筆を走らせていて、私もその列に並んだ。

さて、この一首『びあんか』の中では地味な歌かもしれない。真昼間、河を渡っていく電車だろう。それが「浴身のしづけさ」をもっているという。硬質なイメージのある電車が、やわらかな女性的なイメージに大きく変わり不思議な空間に読者を連れていく。水に浸かった半身がつやつやとして、じっと息をつめているような時間がある。

 

迎え入れ送り出すことくりかへしつね虚ろなる地下の駅あり

 

これも電車に関する歌だ。いわれれば、駅は電車を迎えたり送り出したり、終着駅でない限り、通過点でしかない。毎日何十回とそれを繰り返す駅が「虚ろ」なると表されている。一首目の歌とは違いここには都市の地下にふと見える、空虚な世界や時代の雰囲気がある。

 

足拍子ひたに踏みをり生きかはり死にかはりわれとなるものを踏む

 

村上鬼城の俳句に「生きかはりしにかはりして打つ田かな」がある。これは農民を描きつつも人間の業や宿命までも表している句だ。水原のこの歌は、能の舞をしている場面。足拍子はその踏み方ひとつで様々な感情を表現しているという。しかしそのこと以前に足拍子を踏むという所作が単純でありながら、生きる原点につながっている気がしてくる。「生きかはり死にかはり」片足ずつ踏んでいくそのときに、自分が死に、また生まれ変わり、死と再生を繰り返している。舞い手である自分がさらにそれを踏んでいるという、重層的に作られている一首だ。

 

雪の夜の粗塩こぼれ書かれざる詩歌互みに(ひび)きあふべし

 

「書かれざる詩歌」とはどういった意味だろう。例えば死んでしまった詩人のもう書かれることのない言葉ともとれるだろう。もしくは詩歌にしようと思っていたけれど、まるで塩の粒のように零れ落ちていった言葉ともとれる。それがこの世のどこかでお互いに共鳴しあっているだろうという。文字になって残るものだけが詩歌でないと言っているようでもある。

京都での講演のときに、難解歌である自作について、どんな風に読んでもらってもかまわないと笑顔で水原さんは話していた。現代に詠まれながら古典和歌を読み解くように、大きなイメージの中で水原作品を読み解くのは面白い。

 

編集部より:お詫び

本日の更新が大幅に遅れてしまったこと、たいへん申し訳ありません。

編集部のネットトラブルで、インターネットに接続できず、更新できませんでした。執筆者の前田康子さんには、ご迷惑をおかけしました。

毎日楽しみにしてくださっている読者の方にも、ご心配をおかけしました。今後はこのようなことのないように、気をつけてまいります。