君が火を打てばいちめん火の海となるのであらう枯野だ俺は

真中朋久『雨裂』(2001年)

抑制されている。けれど、激しい。そして魅力的だ。
「火の海」になって「君」に迫りたいのだろうか。いやそうじゃない。
「いちめん火の海となるのであらう」と云いながら、けっして燃え上がらないぎりぎりのところで感情をおさえている。
あくまでも「枯野」でありつづける。そして「君」のそばにいる。

あるいはもうひとつの主張がある。
たとえば、燃え上がるとしたら、その火は「君が」放たねばならない、という。
ほかのだれでもない、「君」が打つ火こそがこの「枯野」を燃え上がらせる。
ひそかな、それでいてまっすぐに届く愛の告白だ。

さらに、結句の「俺」という一人称のあらあらしさが、境界に立つ姿を喚起し、かえって抑制をつよく印象づけているようにも感じる。

子の旋毛のやうだと思ひもう一度細線にかへて台風を描く

「子の旋毛」や「細線」という柔らかで繊細な素材。しかし描くのは、「台風」である。
「台風」は野分ともいうが、この歌では「台風」のほうがだんぜんダイナミックでいい。

ここでもまた、じっと対象にむかう緻密な情熱がある。

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