戦力外と宣告するのは紺いろのスーツの男 お前は俺だ

加藤治郎『噴水塔』(2015年)

 たぶん、世間で言う「リストラ」の場面で、一方的な部署替えや配置転換を上司が部下に伝えているところをうたっている。この歌の視点人物は作者で、「私」がそういう宣告を受けているのだが、私にしてみると、そういうお前こそ配置転換した方がいいようなやつだよ、というのが一つ目の解釈。もう一つは、ちょっとしたタイミングでこういう関係になったが、昨日の俺は今日のあなたで、あなたもいつ俺と同じように放り出されるかわからない存在なんだよ、と言っていると解釈する。読んだ瞬間に覚える<感情イメージ>は、このふたつの解釈が未分のまま激情となっている場面である。いま<感情イメージ>という用語を発案したが、これは「心象風景」などと言う時の「心象」とも少しちがっていて、もう少し生なところ、直接的なものが投入されていて、感情移入の材料として読み手の同時代的な経験がエネルギーとして供給される性格のものである。

大手の会社のサラリーマンとして五十代半ばにさしかかり、会社の経営も思わしくない状況になって来ると、リストラか転職かという選択肢が目の前にちらついて来るという現実に直面する。そうした経験は作者だけでなく、何万人という日本人がバブル崩壊やリーマン・ショックや円高や円安という節目ごとになめさせられて来た苦汁の思いなのであり、加藤治郎の作品集のなかで暴れまくる言葉を支えているのは、その何万人の一人であるという共感の根っこが確かに共有されているところにある。その当事者性の深度を言葉の錘を降ろして測り、そこから汲み上げたものを感情イメージの地平に言語化して撒き散らすのが、加藤の「口語のうた」の表現者としての使命であったと、ここでは言ってみる。ただそれが強烈な自覚となってしまうと、どうしても己をなぞる己の問題が出てきて、加藤はそのことに毎回歌集を出すごとに向き合い苦しんで来た。私が加藤の歌を見ながらいつも感嘆することは、どんなに疲労困憊したり、現実にへこまされたりしながらも、言葉の部分ではダイレクトに打ち返す活力と膂力を持っていることである。