さいかち 真


人生は壊れものだと思うだろう 言葉が見つからない、きみの前

三枝浩樹(「短歌現代」2015年4月号「青空―十二歳のきみに」より)

 もう一首同じ一連から引く。

  キャッチボールの四、五秒ほどのやりとりのボールが返る ずしりと響く

 

私は現在の三枝浩樹の作品が好きだし、前衛短歌の思想詠の手法を一番きちんと継承し、熟成して育てて来ているのは三枝浩樹であると思う。それは近年発表された高橋たか子についての連作などをみれば明らかである。それとくらべて、最近復刊された第一歌集『朝の歌』の、前衛短歌の影響に全身を浸していた頃の作品は、痛々しいぐらいに観念がむき出しで生硬であると感じた。しかし、あの作品集がなかったら、現在の作者の充実が存在しないことも確かなことである。

先日、荒川洋治の『詩とことば』という2004年刊の古書をみつけてめくっていたら、渋澤孝輔の詩についての短文があり、「いま詠むとどうか」という問いかけの後に、比較的きびしい文言を書きつけていた。渋澤の代表作「水晶狂い」という詩について(※1969年刊の詩集『漆あるいは水晶狂い』所収)、荒川洋治は次のように述べている。

「詩の言葉としては観念的であり、きめが粗い。それも興奮の時代の一面とかかわるかと思う。当時の読者はそんなふうには感じなかった。純粋な芸術的なことばでつくられた、現代詩であるとみていた。作者もそう感じていたのではないかと思う。」

同じ時代の短歌の言葉にも、そういうところがあった。ここで荒川の言う「興奮の時代」は、「六〇年安保」のあとに続く「七〇年安保」前後の騒然とした時代のことをさす。

歌人はどうしても第一歌集ということに重きを置く傾向があるが、それは近代以来の青春重視の姿勢であって、歌人も含めて日本人全体の寿命が伸び、高齢の期間が長くなった現代にそれは必ずしも当てはまらない。第一歌集以後の精神的な営みの持続にこそ、歌人の目指さなければならない目標があるはずだ。それを三枝浩樹の歌や生き方は教えてくれるのである。