松村 由利子


がらんどうの倉庫のやうに立ちつくす ペットボトルの水がもうない

          大西久美子『イーハトーブの数式』(2015年)

 

「がらんどう」という言葉は、ちょっと面白い。翻訳家の鴻巣友季子と、作家の片岡義男による対談集『翻訳問答――英語と日本語行ったり来たり』(左右社)の中に、「がらんとしている」「がらんどう」のニュアンスを外国語に訳すのは、とても難しいと書かれている。日本語を母語とする人は、この語をいつ、どこで覚えたのか自覚しないうちに習得するのだが、体感をあらわすこの種の言葉は、なかなか説明できないという。

片岡は「ある程度以上の大きさの建物の内部での体感」「天井の高い、広めの屋内」、鴻巣は「三畳間ではがらんとするか微妙ですし、トイレの個室はがらんとしません」「ひと言で、建物や部屋の面積、天井の高さまでがだいたいわかる」と、それぞれ言葉を尽くして説明してみせる。

こうした無意識に共有している「体感」を持ってきたところは、この一首の巧さだろう。さまざまな商品や機材を大量に保管するはずの「倉庫」に何もないという異常な状況、そして、そのように「立ちつくす」寂寥感。それが「がらんどう」に表わされている。

それだけでも空虚な感じなのに、さらに「ペットボトルの水がもうない」のだから、先へ進むことができない。どこか透明感のある一首に、八方ふさがりのような絶望的な気分が満ちている。