小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町しじつちやう夜ならむとす

土屋文明『山谷集』

だいたい、字余りを許容できるのは一、二か所だと思う。この歌は、初句から四句まですべて字余りである。見た目にも漢字が多く、難解に見えるが、読んでみると内容はきわめてシンプルで、しかも韻律が抜群に気持ちいい。

「しょーこーじょー」「さんそよーせつ」と、S子音の硬質な頭韻が緊張感をつくり、「ー」の長音の伸び縮みを繰り返したあとにある「ひらめき立ち」でゆったりと盛り上がる。そして、ドドドドと刻むような音で「砂町四十町(しじつちやう)夜ならむとす」が鳴る。

小工場に酸素溶接の ひ ら め き 立 ちぃ……
砂町四十町夜ならむとす!!!!!!!!!

読む感覚を文字にすると、だいたいこんな感じだ。
字余りのなかでも三句の字余りは、とくにリズムが崩れやすく、うまく使うのが難しい。この歌の「ひらめき立ち」は六音で、ここで一瞬減速する感覚がある。しかしそれは、「砂町四十町」という思いがけない音の展開へとつなぐための、車でいえばクラッチを切ってギアを一段落とすような操作によるものだろう。この三句の緩みがあるからこそ、その後の「すなまちしじつ」の音は、一音ごとに粒が立ってきて強いリズムになる。

ためしに三句を定型に寄せてみる。

小工場に酸素溶接のひらめい砂町四十町夜ならむとす(改作)

立 ちぃ……」がない分「砂町四十町」の語気が軽くなり、ドドドドという響きが失われる。破調から定型に戻ると正気に返る感じがする。

さて、前回の問いは「どこまでが近代短歌であったか」であった。この問いを考える手がかりとして、玉城徹の「内在的時間の統一」を思い出したい。

玉城は、『近代短歌の様式』において、近代短歌の特徴を、時間の観測地点を一つに固定して歌を組み立てる点に見出し、それを「内在的時間の統一」と呼んだ。そして、その原理を破る例として、掲題の土屋文明の歌を取り上げている。

かんたんにいえば焦点のないような言い方をしてくる。統一を破ってくるのです。〈略〉文明においては、あの内在的な時間の統一感がどこか傷ついてきていると言えましょう。

玉城は時間の統一を破っている歌としてみて、三句「ひらめき立ち」の「立ち」が、「上下を緊密にむすびつけない」効果を持っていると指摘する。たしかに、「ひらめき立ち」と「夜ならむとす」は、文章としては微妙に関係がわかりにくい。

歌が言っている内容は「街のあちこちに溶接の火花が明滅し、そろそろ夜になろうとしていると感じた」と読むことができる。しかしそれなら、先ほどの「ひらめきて」で並列においたり、「ひらめき立つ」で一度切ってもでもよいはずだ。だがそうすると、重めな実景とあっさりとした感慨が上の句と下の句ではっきりと分かれてしまい、読者の頭の中では上下をつなぐための余計な補完作業が起こる。「ひらめき立ち」のような曖昧なニュアンスで読んだ方が韻律はむしろ自然に流れ、情景と感慨は一体感を持って読者に渡される。

玉城は続けてこう述べる。

これを欠陥として言っているのではありません。
文明のこの特徴が、きわめて重要な新しい出発点であることを示したいと思っただけです。もう一つ文明には、他の歌人にはない清潔な語感があります。人工的なひえびえとした輝やきの感覚を表現し得るのは、歌人では、この人においてはないでしょう。

激賞である。注目したいのは、玉城が歌の内容以上に「清潔な語感」を評価している点である。歌の初出が昭和8年であることを思えば、「小工場」「酸素溶接」という語の選択には、当時としては強い素材的な新しさがあったはずだ。二〇一〇年頃に短歌でiPhoneを詠み込むような感覚に近いだろう。

吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は

同じ『山谷集』でよく引かれる歌を挙げておく。一応触れておきたいのは、文明は新しい素材である工業的な大きな力を手放しに喜んだりしているわけではないと言うことだ。韻律にはどこか高揚感があるが、人間が圧倒的な力のもとに効率的に支配されることへの恐れが背景に見える。「夜ならむとす」も、ただ景色の変化を言うだけでなく、夜になっても作業が続いていくんだな、という対象への心寄せを感じさせる。

近藤芳美もまた文明の「小工場に〜」の歌の韻律に注目していた。

硬質のことばが相連なり、結句を除いてすべて字余りである。そのような不協和音の世界に新しい調べが生み出される。うたわれている荒々しい素材の世界にふさわしい韻律はそれしかない。
(現代短歌鑑賞シリーズ『土屋文明の秀歌』p.76)

「不協和音」とまで言いながらも、文明が切り取った「荒々しい素材の世界」に、その韻律がふさわしいと言う。素材に「ふさわしい韻律」がある、という感覚を提示されると、はっとさせられる。名詞の音の響きは、主体が感じ取った社会のありようを反映しうる。短歌において、音と感覚は強く結びついており、読者もまた韻律を通して感覚を受け取ることができる。

土屋文明が「内在的時間の統一」の原理を破っているからといって、ただちにここに近代短歌の終わりを見ることはできないだろう。むしろ、時間の統一が揺らぎはじめた地点として、極めて重要な位置にあるように思える。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です