岡本真帆『あなたとわたしの短歌教室』(服部真里子、山川出版社)
現実には、切手自体が大きいのではなく、切手に描かれたメロンが大きいのだろうけれど、読んだときにはいかにも、「メロンの切手」自体が大きいのだと錯覚する。大きなメロンの切手があったらとてもよろこばしい。きっとややパステル調の、いかにもきれいなうす緑の丸いメロンがそこにはある。ささやかで、けれど何より豊かでうれしくて、思わず誰かに「大きいね」と呼びかけたくなる。メロンの切手は下の句で比喩として提示され直す。「でたらめに遠くで光る海」のようだという。遠ければ遠いほど、海は目にはほそく映るはずだけれど、「でたらめに」「光」っていればこそ、さほどの矛盾は感じない。切手という、指先に乗るささやかなサイズの枠のなかで、それは「でたらめに遠くで光る海」でありうる。誰もがぱっと想起できる喩えというよりも、そんなふうに喩えられて、「でたらめに遠くで光る海みたいだね」と呼びかけられていることがうれしい。ためらわず、頷きながら「そうだね」と返したくなる。
今さら種明かしのようになってしまうが、この一首はいわゆる「折句」であって、それぞれの句の初めの文字が「おめでとう」になっている。服部真里子『あなたとわたしの短歌教室』の講義のなかで、実際に作られた作品として本文に掲載されている。服部は、短歌の世界における三つの信仰(短歌を作る動機として内的要請が必要であり、それによって作られた短歌こそ優れている、そして優れた歌を生むのは苦しみという内的要請である)に「叛旗をひるがえ」すためのひとつの方法が「折句」であると言う。自分のなかに、どうしても表したい気持ちや体験があって、(=内的要請)そのために詠まれた短歌は「すばらしい(はずだ)」という無意識の信仰を解きほぐすために、あえて折句の「外的要請」(句のはじめの音に縛りがある)に頼ってみる。
そのような背景で作られた歌である、ということを改めて思いつつもう一度読み直すとしても、当たり前だが歌のかがやきはまったく褪せない。もしもこのような「外的要請」によって作られた短歌に「がっかり」するならば、とりわけ、苦しい内面や体験を短歌によって昇華した作品が「虚構」であったことに「がっかり」するようなことが仮にあるならば、それは「あなたが感動しているものは短歌ではなく、作者の経験それ自体です」と服部は言う。勝手で無意識な憶測のうちに、私たち読者は作者=主体の生きる現実から生み出された何がしかの感慨を、短歌に求めようとしてはいないか。前のめりに求めようとしなくとも、一首から漂うはずの現実の匂いを嗅ごうとする、くらいのことは無意識にしてしまっているかもしれない。短歌はもとより「遊び」である、ゆえにこんなにも豊かである、ということを掲出歌やほかの折句作品からも感じる。大きいメロンの切手がとてもうれしい。
鬼百合の迷路をついに出られずに戸惑う父が美しかった/服部真里子
