長谷川麟『延長戦』(現代短歌社)
どこへ行くにも、それがはじめて訪れる場所であればなおのこと、「行き」と「帰り」の体感、時間の感覚というのはまったく違う。具体的には、はじめて訪れる場所というのはたどり着くまではなんとなく不安に支配されており、とても長く感じられる。電車であればあらかじめ乗り換えアプリを開き、どういうルートで乗り換えをするのがスムーズか見当をつけておく。いざ当日、スマホで何度も確認しながら次は何線の、どこ行き何番ホームか、案外人が多い、座れない、駅の出口は何番か、駅から目的地までの道のりをまた地図アプリに頼り、そうしてようよう行きたかった場所にたどり着く。その日を迎えるまでの間に、ぼんやりと「行き」の時間は始まっていると考えれば「行き」は途方もなく長い。
主体はどんな交通手段でそこへ行ったのか。書かれてはいないが、行きと帰りの体感の違いはさまざまこまめにルートを確認する必要のある電車やバスなど公共交通機関を使っての移動のほうが、より感じやすいように思う。つまりは単純に言えば、行きの苦労が帰りにはいくらか緩和されて、あれ、思ったよりも早く帰ってこれたな、という実感につながりやすい。
ただ、同じ連作のなかで海へ行っていることからも、車のほうがイメージしやすいかもしれない。車であっても、もちろん行き帰りの体感は違う。読み手である私は行きと帰りのスムーズさをどうも意識してしまうが、この一首では「見えているもの」が違うという。「見えているもの」が違えば、「私も全然違う」。具体的には、おろおろ迷ったりしながら、時間をかけてたどり着いた海と、行きよりはスムーズに道を流れていく帰り道、「私」の気持ちにもいくらか、いや随分と余裕が生まれて、そこから見えるもの、行きには気づかなかったものが車窓から見えたりしている。同乗者がいれば、見えたものについて話しかけたり、話しかけられたりもきっとするだろう。
「行きしな」「帰りしな」という語彙のニュアンスももちろん見逃せない。海へ行ってそして帰ってきた「私」はこうしていま歌のなかで、その海への行程をふりかえる。「行きしな」「帰りしな」とふりかえるときの心のゆとり、往来のなかでの会話を思い起こすときのやわらかな口語、「しな」は親しい人との間にこそある言葉づかいだ。「しな」とは「途中」くらいのきっとニュアンスで、行き途中、帰り途中をこうしてふりかえるときの時間は思い出すうちに広がって細部へ入り込み、相手との思い出の事実の確認、齟齬までを含んで明日、あさって、思い出す限りのその先へとゆるやかに伸長する。きっと未来の「私」は過去のこの日を取り出して、おりおり反芻すれば反芻するだけ、その日の往来はあらたなルートで広がっていく。
視力検査に出てくるような風景にひらけて海へ続くこの道
