飯田彩乃『リヴァーサイド』(本阿弥書店, 2018年)
ひとつの歌の中に「ひかり」と「光」がある。
上の句の「ひかり」は、川面に反射しながら河川敷の空間全体に広がっている。空間の認識だから主体は「ひかりの中」に立つことができる。一方、下の句の「光」はペットボトルの中で乱反射する光だ。容器の内部に閉じ込められた局所的で限定された光である。
具体的な商品名は書かれていないが、ペットボトルの中を満たしている液体は透明な気がする。甘さや色のある飲み物ではない。もし具体的に「炭酸水の光を渡す」としてしまうと、気泡が弾ける感触や冷たさといった別のイメージが立ち上がり、「光」の印象が弱まってしまうだろう。端的に「ペットボトルの光」と言うことで、光の揺らめきを歌の中にとどめることに成功している。
テクストに直接は書かれていないが、下の句の「光」は激しく揺れている気がする。それはなぜか。
ペットボトルを観察してみるとわかるが、直立しているか・横たわっているかで光の揺れ方が変わる。直立状態では、ボトルの底を中心にしてボトルの外の地面に放射状に光が散乱する。ボトルの底の凹凸が光の反射角を複雑にし、地面に落ちる影の内部に細かな光の揺れを生じさせる。横にして置いた状態では、ボトルの口から底にかけて広がる水面の直径の線に合わせてボトルの内部の光が波打ちながら動く。
「手から手に」とあるように、この歌はボトルを投げ渡す動作ではなく、相手の手のひらにそっと移す動きを描いている。相手が受け取りやすいようにボトルを縦向きにして少し傾ける感じだろうか。渡すときにボトルの中の水が揺れるのだけど「ペットボトルの光」と切り取られると、水の揺れや光に対する過剰な注目が感じられる。
渡す直前の動作はテクストには直接書かれていないが、作中の〈私〉は渡す前にボトルの中身を一口飲んでいる気がする。
渡す前にボトルを傾けているからボトル内部の水面が揺れて「ペットボトルの光」が生じ、その光を相手に渡すことになる。「手から手に」渡すときに「ペットボトルの光」が生じるのではなく、今自分が手に持って所有している「ペットボトルの光」を相手に分け与える、と読めないだろうか。そうすると「光を渡す」と言うフレーズは「光」があってそれを渡すと言うように自然な言葉になる。
「川沿ひのひかりの中で」という初句から二句までの調べはなめらかで落ち着いている。次の三句は「手から手に」で「手」が反復されてここで語気が一瞬強くなる。三句は五音の中に助詞が「から」「に」の二つ入っている。助詞は心の動き現れる「辞」(時枝誠記)のひとつであり、助詞が増えるほど、主体の認識の変化を読者が追う必要が生じるため、読者の認識負荷が少し高くなる。
川沿ひのひかりの中で手から手にペットボトルの光を渡す
○○○○の/○○○の○○で/○から○に/○○○○○○の/○○○を○○○
助詞以外をすべて「○」にしてみると三句の助詞の密度がよくわかる。また、この歌には動詞が結句の「渡す」ひとつしかない。初読の感覚で読み直すと、まず「手から手に」が一体何を示すのかわからず認識の負荷がぐっと上がる。歌を最後まで読んでようやく「手から手に」と「渡す」が結びつき、負荷が解消する心地よさが読後の印象の最初として感じられる。その後に「ペットボトルの光」が前景化してくる。
四句以降は再び落ち着いた調べに戻っていく。三句にだけ軽い緊張があるようだ。ペットボトルを渡すだけの場面なのに、胸の奥が少し締め付けられるような感覚が残る。この歌の要所は「光」の美しさの発見ではなく、「ひかり」によって区切られた空間の中で相手との距離が縮んでいく「手から手に」の一瞬の緊張感にある。
夕光のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝を垂る
/佐藤佐太郎『形影』
一首の中に二つの「光」の要素がある歌として、佐藤佐太郎のこの歌が思い浮かぶ。夕方、低い位置から西日が差し込み、空間全体が光に満ちる。その大きな広がりの中で、枝垂れ桜の「輝」に視線が寄せられる。客観的な空間把握から近景へと意識が移動していく歌だ。上の句で空間的・全体的な「光」と一体になり、下の句で全体に対する部分の「輝」へ認識の対象を動かしていく。こう整理すると、佐太郎の歌の構造は飯田の歌と近いように見える。
空間に満ちる光と、そこに垂れ下がる花の輝きは佐太郎が認識するよりも前に既にそこにあった光景である。それを佐太郎は「花みちて」「輝を垂る」と言って今この瞬間に光が起こったかのように、光景を主観的な感覚で再発見する感動を歌にしている。自身の認識がなければ光景が生まれることがなかったとでも言うような、因果を無視した歌いぶりである。振り切った主観の強度を持ちながら客観的な描写を成し遂げてしまうのが佐太郎のおもしろさだ。
「ペットボトルの光」を「認識以前からすでにそこにあったものの再発見」と捉えれば飯田は佐太郎に近づく。しかし飯田の歌は、身体的な接触や距離感を表す「手から手に」のような具体的なイメージを心情の暗喩として読んでいく方がふさわしいだろう。
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飯田の歌集に戻ろう。
身体的な接触と乖離が心情の暗喩となる歌、と言う観点で歌集を読んでいくと強く惹かれる歌がたくさん見えてくる。
電柱が姿を消したその日から空の高さがわからなくなる
われらみな美しき沼 頬に胸に降りそそぐ雪をつぎつぎ溶かし
雨音ももう届かない川底にいまも開いてゐる傘がある
春からの行き先がそれぞれにあり額とひたひをまたくつつける
/飯田彩乃『リヴァーサイド』
