上川涼子『水と自由』(現代短歌社)
「つくりごとのうつくしさときに」の二句までひらがながつづく文字のびやかさに加え、初句、二句、三句がそれぞれ6、8、6と一音ずつの字余りをゆるやかに引きずって尾を引くように、読めばスラーのような滑らかな心地よさがある。「つくりごとのうつくしさ」とは何を指すのだろう。虚構やフィクション、と言ってしまうよりも、もっとざっくりとした、たとえば子どもの使う「にせもの」「うそばなし」といった言葉に近いような、現実でなさ、というものへの広いまなざし、と言ったらいいだろうか。
身近に子どもを見ていると、この世の現実に慣らされていくほどに、「うそ」であることを鋭く指摘したり、大人の即興のフィクションを糾弾したりと、世界や社会のある種のリアルさにみるみる適応していくようだ。それでいて、同時にサンタクロースの存在をいまは決して疑わず、ドラえもんの存在さえ信じ、「つくりごと」をむしろ丸飲みにして生きてもいる。
大人になれば現実は圧倒的に現実であって、そのなんというか容赦のなさにみなそれぞれに疲弊し切っている。ふり払ってしまいたいほどに、身の回りには信じがたいがほんとうにあったこと、聞いたこと、近くにも遠くにも、あらゆる現実があふれている。あまりに醜悪で目を背けることもある。疲れているから「つくりごと」は自分から遠ざかるのか、無意識のうちに遠ざけてしまっていたのか、何かのきっかけで久しぶりに触れる虚構やフィクションの世界というものがこんなにも胸に迫る。「現実でないこと」、フィクションであることに思ってもみないほど助けられることがある。
たとえば、映画を観ている。映画のなかのひとつの世界、「つくりごとのうつくしさ」に打たれながら、下の句「人の服もてなみだを拭けり」というのも、なかなか稀な状況のように思う。泣くことは、多く予期できないから、咄嗟に鞄からハンカチを出すとか、ティッシュを抜きとるとか、そういうこともできないまま、ただ指や手のひらであいまいに拭う。それが、「人の服もて」という。ただ、抱きしめられるかたちで胸元に涙を押しつけるというよりはもっとさりげなく、ちょうどそこにあったハンカチのように、隣の人の袖を借りた。たっぷりとしたパーカーのフードのたわみの部分を借りた。そんなことを想像する。相手の反応はわからないが、一首とゆるやかに繋がってきっと近くに誰かはいて、暗い部屋のなかで、その人の袖やパーカーはほんの少し涙で濡れている。
ゆつくりと息がからだを離れゆきてそのまま鳥になるフェルマータ
