永井祐『日本の中で楽しく暮らす』
初句の「しらかべ」の古風な響きと助詞「に」の組み合わせに、これから短歌が始まるんだなという気配を感じる。前回も少し触れたが短歌の助詞(てにをは)から微細な心の動きや認識の変化を読み取れる。作者の方も、読者は助詞を深く読んでくれるだろうと考えながら歌を作る。「白壁に」は読者が短歌を「うたう」ための丁寧な導入パートに見える。読者は、作者から読者への配慮をほんのりと感じながら、「うたう」行為によって主体と一体になる。
「たばこの灰で字を書こう」まではオーソドックスな短歌の上の句としてすんなりと読める。ところが四句に入ると、そこまでの流れを切るようにポツリと「思いつかない」が置かれる。さらに結句でも「こすりつけよう」と四句と同じトーンの声が続く。下の句は「うたう」モードとは異なり、主体の内心の声を聞いているような気がする。
上の句と下の句の間で何が起こっているのか。まず、句切れを分けてみる。
白壁にたばこの灰で字を書こう|思いつかない|こすりつけよう
◯◯◯◯に◯◯◯◯◯◯で◯を◯◯◯|◯◯◯◯◯◯◯|◯◯◯◯◯◯◯
三句・四句・結句の三回の句切れがある。ほとんどの歌は句切れが一つか二つなのでかなり多い方だろう。上の句には各句に助詞が置かれているが、下の句には助詞が一つもない。なめらかな「うた」への導入からのこの落差は衝撃である。助詞がないと読者は主体が何をどう認識したか判断できなくなる。上下の落差によって読者と主体の間にある「これは歌である」という黙約は崩れる。下の句の発話主体はテクストの内容を「うた」と自覚できていない感じがする。上の句と下の句の主体は同一人物かつ「うた」の枠組みによって関係性が保たれているのだが、下の句に至って、主体は「うた」であることを忘れている。たまたま定型の音数に合っている言葉が主体の内心にあり、小説の登場人物の内心を見るのと同じ次元から読者が内心の心を覗き見している。下の句は「うた」から外れているのだろうか。
- 「白壁にたばこの灰で字を書こう」:「うた」の意識が強い(読者を認識している)
- 「思いつかないこすりつけよう」:「うた」の意識が薄い?(読者を認識していない発話に見える)
大辻󠄀隆弘はこの歌の動詞に注目する。「書こう」→「思いつかない」→「こすりつけよう」の三つの「今」があると読んで、この時間の変化を「多元化」と呼び、「近代短歌と決定的に違う」と述べた。
近代短歌において、時間の定点は、客観的な時間軸の上の一点に固定されている。しかしながら、永井祐や斉藤斎藤ら現在の若手歌人たちの口語短歌は、この「今」という時間の定点を多元化し、それらの「今」を作者自身が移動することによって一首の叙述を形作ってゆく。そこが近代短歌と決定的に違うのである。
大辻󠄀隆弘「多元化する『今』」(『近代短歌の範型』)
一首の中で「今」が移動すると言われると確かにそんな気がする。ただ「現在形の動詞の終止形」という文法的な機能から逆算した読み方を導いていないだろうか。時間の多元化がもっと極端に現れるように歌を改作してみる。
白壁だ たばこの灰で字を書こう 思いつかない こすりつけよう(改作)
初句「白壁」を現在形の終止形で句切れにして「白壁を見る」ような新しい「今」の地点を追加してみた。ここまでいくと歌全体が、「今」の移動をたんたんと記述するだけとなる。一首の中で一度短歌らしさを立ち上げて読者に「うた」わせなければ、下の句の原作の下の句にあった主体の内心を覗き込むような感覚は起こらない。歌の意識を外すのは一首のうちの一部にとどめておかないと歌のクオリティは下がってしまう。
この歌が「近代短歌と決定的に違う」のは時間の移動なんだろうか。歌の外部であるところの読者が「うたう」間の現実の時間は数秒〜十秒ほどである。この数秒の時間経過と歌の内部の時間経過が一致するのが決定的な違いではないか。永井は短歌のリズムを用いながら、読者の意識を「うた」の次元から一段落とし、主体の内心の声を読者に発話させてリアルを感じさせる。文法的には三つの〈今〉があるが、わたしの体感としては一首に明確な時間の移動を感じない。「白壁にたばこの灰で字を書こう」が「うた」の次元であり、「思いつかないこすりつけよう」は助詞を抜いて認識の次元を落として立ち上がるその瞬間の「リアルな声」「リアルな思考」なのだと思う。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな
永井の代表歌であるこの歌も同じ構造を持つ。「あの青い電車に」が「うた」の次元で、以降は読者が歌を読む時間経過と歌の内部に流れる思考の時間が完全に一致する。助詞を抜けば抜くほど歌の内部の時間はリアルな時間経過に近づいていく。
次元が違うとして、なぜ上の句と下の句を同一の主体と読めるのだろう。「うたう」主体であるところの〈私〉が「うたう」主体の内心を見る。それができるのはやはり「うた」だからではないか。「うたう」行為によって流れる現実の時間において、一首の中の認識主体は一人に保たれる。読者と作者の双方が短歌に強い信頼を持っているから成り立つ歌である。
もう一首見ておこう。
タクシーが止まるのをみる(123 4)動き出すタクシーをみる
/永井祐
川本千栄も一首の中で変化する時間に注目する。
今この瞬間の発信が、細切れの時系列として流れていき、それがツイッター(嶋注:現X)の画面上で順次「過去」となっていくことが、かなり明確に可視化されたのだ。それゆえ、たとえ詩歌の中とは言え、現在の時点から過去の助動詞を使ってある長さの時間を構成し編集するのは不自然だという体感が生まれる。次々流れていく時間を次々に記述していくのが最も自然な時間感覚なのだ。〈略〉ツイッター的に眺めると、時系列的な出来事やその時の感情の発信であり、極めて自然な時間感覚であるように思える。
川本千栄「繋がないままの歌--時間感覚の変容を中心に」(『キマイラ文語』)
川本の場合は、なぜ文語ではなく口語なのか・なぜ細かく時間を移動するのか、と言う問いを立てて歌を読んでいるが、時制観のそれは大辻󠄀と近いと見て良いだろう。この歌にも、助詞が入った歌の意識が強い部分「タクシーが止まるのをみる」「動き出すタクシーをみる」と、助詞を用いない主体の内心を覗き見る部分「(123 4)」がある。「次々流れていく時間を次々に記述していく」というよりも、歌の中のある瞬間が歌の外部の時間経過と一致する感覚である。「(123 4)」を読むとき、歌の内部の時間経過と歌の外部の時間経過は完全に一致している。その点で私は川本とも感じ方が違う。
永井は助詞を巧みに操作し、一首の中に歌の意識の強弱をつける。意識の強弱は歌の内部時間の移動のような一次元的な移動では捉えられない。歌の内部と外部の時間の経過を一致させる試みは近代短歌の内在的時間の統一を「ある一点に固定した時間」から「ある一点のひと連なりの時間経過」に広げる動きに見える。
どうして永井は意識を揺らそうとするのか。おそらく、過去の〈私〉と今の〈私〉の連続する感覚が希薄なのではないか。泡のように現れては消える〈私〉の歌う瞬間の〈今〉を確かめている感じがする。
