光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』(書肆侃侃房)
詞書には「ままどこ玩具」とあり、あの子ども用のプラスチックでできた野菜の数々を思い浮かべる。歳の離れた妹が触っているのを横で見ていたこと、児童館などにあるものを、自分の子どもが触り、ふいに渡され、「あむあむおいしー」などと言ったこと。一番熱心に遊んだのは自分の幼少期のはずだけれど、その記憶は当然なく、だからほとんど手持ち無沙汰な態度で、妹や、また自分の子ども、その近くにたまたま居合わせた知らない子どもがつけたり外したり、自分ではない子どもたちひとりずつのいっときの遊びのうちに、あの野菜のマジックテープの質感は思い起こされる。
付属のまな板に乗せ、にんじんやら大根やらを、(想像するのは木製の)包丁で断つ。半分のところで頼りなく繋がっていたマジックテープが包丁に加えられた「ちから」によって分かれる。同じ子どもによって、あるいはたくさんの違う子どもたちによって、とにかく繰り返し、幾度となく切られた野菜の断面はあっけなくふたつに分かれる。覚えのあるそのマジックテープの接着面はどれもほとんど取れかけて、心許なさを感じる。
というのは大人である自分の想像で、子どもが同じことをするとなれば、それなりの力が要る、ということもまた思う。たくさんのなかからひとつの野菜を選んでまな板に乗せ、根のほうか頭のほうか、いずれかを掴み、その真ん中に包丁をまっすぐ宛てがう。切る。すこん、とか音がする。そのとき子どもはきっと、真顔である。
ひとりの子どもによる、包丁の握り、切り落とし。野菜を断つまでの動作のそのひとつ一つ。「同じちからが生むおなじ音」というのは、だからそのひとり一人による包丁に加えられた力と、それによって断たれた野菜の上下を繋ぐマジックテープの分かれる音、ビリッとか、あの音が、ひとりの子どもが加えた力加減によってその音を変える。
初句から「8・8・5/7・7」と上の句が不規則であり、下の句の七七は「ちから」と2度目の「おなじ」がひらがなに開かれることによってか、それぞれの3文字がひとつの野菜のパーツのように見え、それに誘われるように結句は「うむ/おな/じおと」とぶつ切りの不思議なリズムで読みたくなった。すこん、といま切り落とされるにんじんの半分。そういえば、ままごとの野菜のおもちゃには手に馴染む木製のものもあった。中心のささやかなマジックテープにはゴミやら髪の毛やらも絡まって、にんじんの下部に大根をくっつけたり、おもちゃの野菜は姿を変える。子どもがそれを手に、「見て」と言う。なんでもなく、真顔の、ひとりの子どもの握るちから。そのちからによって生まれるひとつの音。まな板を飛び出て転がる野菜の下半分、拾って「はい」と渡してやる。誰に渡したのか。自分の子どもか、幼い頃の妹か、知らぬ子どもか。大きな感情の生まれる遊びではないからこそ、どの子どもも真顔のまま、繰り返し野菜を握っては切る。飽きれば切られた野菜は切られたまま、子どもは次の遊びに移っていく。
麵麭の耳に麵麭くるまれてゐる朝の等しき深さに子と目醒めたり
