/香川進『太陽のある風景』(1941年)
定型ではない、自由律短歌の歌だ。香川の代表歌と合わせて読んだ方が良いだろう。
花もてる夏樹の上をああ「時」がじいんじいんと過ぎてゆくなり
/香川進『氷原』(1952年)
名歌である。一生に一度でいいからこんな歌を詠みたいなぁと思うし、一度しか詠んではいけないタイプの歌だと思う。文語定型の歌だが「ああ「時」がじいんじいんと」は口語的で、「明るいあかるい」の空気感を引き継いでいる感じがする。香川の歌には口語自由律をルーツにしたからりとした空気感のある歌がときおり現れる。時が過ぎると言うとどこか寂しい感じがするものだけど、「じいんじいん」はなんとなく楽しげだ。
そもそも「自由律」とはなんだろうか。三省堂の『現代短歌大事典』にはこうある。
短歌の自由律、すなわち五七五七七にとらわれない、自由な形式の短歌表現のこと。〈略〉短歌の革新が意識されるときに、まず文語が、次に定型詩が克服すべき対象となった。〈略〉「自由律」が大きな潮流になるのは昭和初期の新興短歌運動からである。〈略〉昭和十年代に入ると「自由律」そのものも急速に衰えた。戦後に復活したが、作品的な成果に乏しく、少数の人々が孤類を守る形式で持続している。(三枝昂之)
「まず文語が、次に定型詩が克服すべき対象」とあるように、自由律は強い理念を伴った短歌の革新運動であった。ただし、明治期の和歌革新運動が和歌を換骨堕胎して語彙の制約を解放していったのにくらべて、自由律は「文語」と「定型」を古い様式と見做して否定し「口語」と「自由律」だけで歌を作ろうとした。自由律の「自由」とは文字通りのなんでもありの意味の自由ではなく、反-文語定型というフォルムを通して思想を示そうとした運動である。
五七五七七の定型に収まらない短歌であっても、字余り・字足らず・句の欠落・句跨りといったフォルムは定型の破調という括りになる。「自由律」が破調と大きく異なるのは、定型のリズムの破壊であって、もっともわかりやすい方法が「句の単位をはっきり分けない」だと思う。しかし句の枠組みの破壊が行きすぎると散文になってしまうので、散文と短歌の間のどこかハイブリッドな位置で落ち着くようになる。自由律を立たせるには、定型を強く意識しながら散文との間を綱渡りしていくバランス感覚が必要になる。
自由律短歌にも「律」(リズム)はある。ただしそれは、定型のような句の単位の前提を持っていないため、読みの中で事後的に立ち上がるリズムである。
私の内部に/巨口のやうな/ヱヤーポケットが出来た日の/明るいあかるい/七月のそら
こう分けると定型で読めそうだが絶妙に定型から外れている。最後の「七月のそら」は七音だが、三句にあたる「ヱヤーポケットが出来た日の」の字余りが辛くてどうしても息が続かない。自由律短歌は句を細かく分けずに勢いよく最後まで読んだ方が気持ち良いと思う。
自由律として気持ちよく読めるように言葉のまとまりを分けるならこんな感じだろうか。
私の内部に/巨口のやうなヱヤーポケットが出来た日の/明るいあかるい七月のそら
これだけだと調べの感覚があまり伝わらないので、流れが変わるような言葉(強めに読みたい言葉)を太字にしてみる。
私の内部に/巨口のやうなヱヤーポケットが出来た日の/明るいあかるい七月のそら
「巨口のやうな」「明るいあかるい」を強調して読むと喩のつながりがわかりやすい。内部を持つもの=区切られた空間の印象よりも、どこまでも広がるような開放的な感覚が強く感じられる。自分の中にぽっかりと広い空間ができた瞬間を思い出しながら空を眺めている気持ちのよい歌だ。現在の七月はだいぶ暑くなってしまったが八十五年前の七月は心地よい風が通る感じがする。「巨口のやうなヱヤーポケット」にはやわらかな風が吹き込んで大きくふくらみ、押し潰されずにそこにあり続ける。「巨口」は怖さもあるが、カオスを楽しむような前向きで希望に満ちた屈託のない歌だ。そして、戦前の歌である。今読むとどこか儚さも感じさせる。
では、野村日魚子の短歌に戻る。
百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た
/野村日魚子
この歌は少し変えるだけで定型〈感〉を完全に外すことができる。
百年後に 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれてわたしたちはそれを見た(改作1)
助詞「に」「て」を補ってみた。こうすると歌の中の時間経過が分かりやすくなるが、原作にあった細かな休符を挟むリズムが失われて散文によっていく。野村は(意識しているかはわからないが)意味より定型の韻律を優先して助詞を抜いているように見える。定型を前提にした言葉の操作が感じ取れる。
もう少し自由律に寄せて改作してみよう。内容が変わらないように、また、香川の「ヱヤーポケットが出来た日の」のように上の句の途中に五音七音から遠ざかる長い文を入れて句の枠組みの破壊を試みる。
百年後 あなたは嵐のように恋がしたいと言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た(改作2)
定型感は薄くなるが、リズムが平板で物足りない。原作の「嵐のように/恋がしたいと/あなたは言い」のように、五音七音に伴って現れる小休止がつくるリズムがないと、歌の魅力は失われてしまう。定型のリズムは、野村の歌にとって欠かせないのではないか。
自由律短歌が定型を避ける形式だとすると、歌のどこかに五音七音のまとまりを置こうとする野村の歌は、自由律のようで自由律ではない。定型への接近を避けようとしないように思える。これは自由律短歌にあってはならないことだ。
もう一つ、自由律は口語で作るものだが、野村の歌は話し言葉という意味の「口語」からも離れている。
百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た
主語をはっきりと書く翻訳の文章のような過剰な丁寧さは話し言葉ではなく書き言葉である。口語に分類される歌だが、性質は文語(=書き言葉)だ。「文語」を避けようとした自由律とは思想の上でもフォルムの上でも異なる詩形ではないか。
いったんまとめてみる。
- 一見して定型には見えないが、読者が定型を意識しなくてもするすると最後まで読めてしまう。
- 破調に見えるが、定型の存在を強固に感じさせる効果はない。
- 自由律短歌に見えるが、反定型の精神がなく、無防備に定型に接近するように見える。
- 散文にも見えるが、定型のリズムが随所に感じられる。
破調でも自由律でもないとすると野村の歌はなんといえば良いのだろう。野村だけの固有の文体となるのか、これからの短歌の共有財産となるような定型のパラダイムシフトが起こるのか今はまだわからない。
間違いなく言えるのは、定型に見えないが定型の性質が十分に備わった短歌である。見た目と性質を分けた上で「定型からの逸脱」を考え直してみたい。
(次回、土曜日はもう一度定型に戻って考えてみます。)
