川本千栄『裸眼』(角川書店)
「目から鱗が落ちる」だとか「あいた口が塞がらない」だとか、ふだんから慣用句を警戒している。だって目から鱗は落ちないし、あいた口はいま塞がっている。驚いたりかなしんだり、感情を誇張して表現するときのそれはまさに「慣用句」なのだから、そこに突っかかっても仕方ない。と思いながら、基本的にはうそだと思う言葉は使わずにいる。それで言うと「胸が痛い」というのも、何か他者のかなしみに寄り添って共感を寄せる際などに感じる痛みとして表すが、あまりに慣用されるがゆえの刷り込みなのか、たしかに感情とむすびつくようにして胸が痛むことはままある。ほんとうに痛んでいるのは胸なのか、その奥の心なのか。といって心は胸の奥にはないから、いま痛むのはいったい何の、どこなのか。おりおり不思議に思ったりもする。
けれど「胸が痛い」からといって、それは「心が痛い」ことを指すのではない。ある感情とともに、ぎゅっと胸が苦しくなる、あきらかに痛むことはある、わかる。でもそれは、やはりけっして心が痛んでいるのではない。心は心臓でも脳でもなく思って考え動かす身体の全体であると私などは頑なに思いながら、そのとき痛んでいるのはつねにじっさいの、身体のどこかしらである。この掲出歌の下の句にあるように、たとえばそれは「背中と肺と首の奧処」である。いわゆる「胸が痛い」と言うときよりもさらに具体的に、そして一箇所ではなく、より詳しく検分するのなら、そこは「背中と肺と首の奧処」であると言われればひらかれるような気持ちで、なるほどと合点する。特に「首の奧処」が痛むという、この一首を読むまで自分の身体の名指せる場所として、「首の奧処」を思ってみたことがなかった。
私の場合苦しいときに、なんとなく喉が狭く、詰まるような感じがして、そういうときはたいてい涙が出る手前なのだが、もしかするとそこが「首の奧処」に近いのかもしれない。首も肺も背中もひっくるめれば上半身の内側の、より後方ということになる。いま痛むのはそこ、そこが痛んでいる。「心が痛い」などと言うのはじっさいは容易く、ほんとうにいま痛むところをわかっていることのほうが痛みは鋭い。強がるとかそういうことではなく、いま痛いのだ。痛いことと、かなしいこと、やるせないことどうにもならないこと、なぜ感情はほんとうの痛みを伴うのか、わからない、けれど痛い。「首の奧処」に心はないが、わたしの身体がいま痛む。痛む場所を名指すことができる。
裸眼で見る海の底にんげんの心の底のように荒んで
