そのひとのこころがすきで その奥の森にいばらの道は潤びて 

佐藤弓生『花やゆうれい』(ほるぷ出版)

※潤びて(ルビ:ほと)

絵本作家、町田尚子との歌画集であり、この一首も一枚の茶トラの猫の絵とともにある。「そのひとのこころがすき」というのは、じつのところどういうことを言うのだろう。その人の中身や内面が好き、と同じなのか、違うとすればどう違うのか。ある人を自分は好きかどうか、どれくらい慕わしいと思うか、思っているか、たとえば何かの集まりで顔を合わせる程度の間柄であったとして、その人が来ていれば(おっ)とうれしく、来ないとすこし寂しい。野鄙な自分はそんなふうに遠く近くさまざま、他者への好意を思ったりするが、いいな、と思うときのその人は、どちらかというとその人全体の感じを捉えており、もっとぼんやりとしている。この人のここが好きでこういうところは目を瞑りたく、などと勝手気ままに思うこともなくはない、がもっと表と内面、ひとりを分けるというよりもなんとなく慕わしい、と思う距離感であれば相手をその存在感として、ふんわり捉えていることが多いかもしれない。

より近しい相手に対してであれば、もちろんもっと気になることはある。いいこともそうでないことも詳細に言語化できる。だから歌のなかの「そのひと」が主体にとってどのくらいの距離の相手なのか、一首から測ることは難しい。というのも「そのひとのこころがすきで」という上の句は、まずそのひとの好きなところを言語化しようとする相手への近さ、そしていっぽうでその好きなところというのが「こころ」であるという、漠然とした掴み方、そのように名指された先の狭さと広さの塩梅が絶妙である。それがひとつ、不思議でとても面白い。

さらにそのこころの奥の「森にいばらの道」があって、それが「潤びる」という。人のこころの深さと、同じだけの広さ、森のなかにはむろんいばらの道があっておかしくはなく、深くを行けば行くほどひんやりと湿り気を帯びて「潤びる」ようだ。踏みしめる足から匂いや湿度が柔らかく染みだして、まだこの先に進むことができるのか、ふと不安になって立ち止まりたくなる。それで、冒頭に戻ることになるが「そのひとのこころがすき」と内面が好きとはどう異なるのか、そう遠くはないことなのか。ひらがなの「こころ」は「心」よりもさらに自在な、そのひとのこれまで、いま、これから、さまざま変わるありようそのもの、存在を含めた丸ごと一個、という感じがあって、さらに言えばひとつの身体に収まるひとつの心、というよりももっと広がりのある、身体からじわじわ染み出すような気配も含めた伝播性のある存在感、ということになるのかもしれない。そういうものを含めて言うときの上の句は、漠然としながらも同時にそのひとの深くを見ている、見ながらまた途方に暮れるようでもある。

木のように座りなおして五億年後の春風を聞いていました

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