ずっと一緒にいたいと思う/思わない 商店街のアーチをくぐる

佐々木朔『往信』(書肆侃侃房)

いま住む町のアーケードはすでにシャッター商店街で、たまに活気ある別の商店街を訪れると文字通りその活気、人の往来の多さに驚く。そもそもこれまで住んだ場所に活気ある商店街があったことがない。だから訪れる商店街はつねによその、一度限りの場であって、初めて行く友達の学校の文化祭のような、期待もさほどなく、けれど行ってみればそれなりに楽しんで満足し、帰り際に何度かふり返ってもみて、名残惜しく、自分の町にこんな場所があるなんて、と羨ましく思ったりする。

活気ある商店街であっても、駅の一番大きい通りからは少し逸れたところにあったり、意図せず歩いていると不意に現れたり、その「アーチ」を目の前にして、入ろうと思って入るのが商店街で、出口をくぐるときもまた、なんとなく(出口だな)と思っている。やはり商店街はどこか文化祭めいて、なんとなしにいつも商店街のことを思うときわたしは文化祭の、あの手製の門をアーチのイデアのように、同時に思い描いている。

商店街のアーチをくぐりながら、そこにふいのもの思いとして、いま近しい人とのこれからのことも、さし挟まれるように思い起こされる。ほとんど無意識のうちに思うのは、そこが入り口と出口の常にある場、だからであってもちろんどんな建物にも入り口/出口はあるけれど、たいていは同じところから入ってまた出ている。たとえばトンネルのように、卒業式の後に在校生たちが手と手を両側から重ねて作るあれも思えばアーチ、あのトンネルを足早にくぐったこと、くぐればどうなるということもなく、けれどなんだかいつも意味ありげにアーチはあるから、なにかを思う。思ったっていいはずだ。

「ずっと一緒にいたいと思う/思わない」はどちらかに丸をつけるようなYes/Noの二択の問題ではきっとなく、いつだって、それがどのような関係であれ、つねに同時にある、起こりつづけているもの思いであると思う。つねに(一緒にいたいと)思うし/思わない、矛盾するわけでもなく、どちらもほんとうにある思いとして、思うし、また同時に思わない。どうなるかはわからない。無責任なのでもなく、そういう真ん中の、どちらにも寄りきらない気持ちで知らない街の商店街のアーチをくぐってつかのま店を冷やかし、出口のアーチをくぐって自分の住む町へと帰る。

生きているものだけが病む明け方の運河は鴨とひかりをあつめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です