ははそはのははもそのこも/はるののにあそぶあそびを/ふたたびはせず

三好達治「いにしへの」(『花筐』1944年)

「いにしへの」と言う詩の最後の一連が短歌のかたちになっている。詩は全体が文語調で五七音の繰り返しが続く形式で書かれており、かたちとしては長歌に近い。近い、というのは長歌であれば歌の最後が七七で終わり、五七五七七の返歌が添えられるが、「いにしへの」は長歌でいうところの終わり七七がない。五七五七……と続く一連の後に、一行を空けて、掲題の一連がぽこんと置かれている。

いにしへの日はなつかしや
すがの根のながき春日を
野にいでてげんげつませし
ははそはの母もその子も
そこばくの夢をゆめみし
ひとの世の暮るるにはやく
もろともにけふの日はかく
つつましく膝をならべて
あともなき夢のうつつを
うつうつとかたるにあかぬ
春の日をひと日旅ゆき
ゆくりなき汽車のまどべゆ
そこここにもゆるげんげ田
くれなゐのいろをあはれと
眼にむかへことにはいへど
もろともにいざおりたちて
その花をつままくときは
とことはにすぎさりにけり

ははそはのははもそのこも
はるののにあそぶあそびを
ふたたびはせず

長歌パートの最後「とことはにすぎさりにけり」ここだけが「にけり」の強い詠嘆であり、詠嘆を持って詩に一区切りを入れようとする。汽車の窓辺から春の水田一面に咲いているレンゲの花が見える。そこに降り立ってレンゲを摘んで遊んでいた日は遠く過ぎ去ってしまった。母と子供が遊んでいた時期は夢のような時間であった。遠い昔を回想する「にけり」である。

「にけり」の回想によって「野にいでてげんげつませし」が遠い昔を象徴する出来事となる。それが短歌パートでは「はるののにあそぶあそび」と抽象化される。詩の全文を見れば「はるののにあそぶあそび」が具体的に何を指しているのかわかるが、短歌としてこの最後の一連をみると、母と子の関係が変わっていく様子を「あ「そぶあそびを/ふたたびはせず」と強く言い切る。長歌パートは遠い昔を懐かしく思う気持ちが歌われていて、短歌パートは一転して、もう遊ぶことはないのだ、と厳しく突き放すようにいう。まるで子供と遊ぶことが許されないことであるかのようだ。

最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て/俵万智『未来のサイズ』

「最後とは知らぬ最後」は「はるののにあそぶあそび」と同じようにそのフレーズ単体では具体的な出来事を指し示さないが、読者が自身の体験を振り返り、体験をみる新しい観点が得られる。過去を回想することで自身の体験が深められる体験が俵の歌にはある。三好の感覚と決定的に異なるのは、「ふたたびはせず」の部分だろう。俵の場合は「その連続と思う子育て」が過去を回想する自分の気持ちを率直にいうところで止まっている。自己を客観的に見つめるような歌である。一方で三好は回想している時点で既に遠い過去を見ているのに、そこにさらに「ふたたびはせず」と過去だけでなく絶対的な法則であるかのように言い切る。遠い昔を遠い昔のままにしておけない。だから三好の詩はさびしいのだ。

 

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