思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を

詠み人知らず(『万葉集』巻十一・2802)

「思へども思ひもかねつ」の「かね」は「こらえることができない」の意味で、「思っても思っても思うことをやめられない」と読める。「つ」は強意だろう。最後の「この夜を」は「今この夜」だが、時間の流れをゆるく読めば「つ」の完了のニュアンスを強めに受け取って「この夜は何度も君を思っていた、山鳥の尾のように長い夜に」と訳してみたい。こうすると自分の気持ちを夜の長さに喩えて詠嘆しているのがよくわかる。

万葉集のこの歌の左注(ある本には〜)に〈あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む〉の歌がある。こちらは小倉百人一首でおなじみの歌で、拾遺集(巻十三・778)では柿本人麻呂の作として収録されている。

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

玉城徹「近代の濾過」では、この歌が冗語の例として挙げられている。

まず「枕詞」。これが冗語の最たるもの——典型的な冗語——であることは誰の目にもあきらかです。次に序詞「山鳥の尾のしだり尾の」というのも、まったく意味はありません。このうたは、半分以上を、こういった冗語につかってしまっているわけです。(p.15)

玉城は意味のない言葉を冗語という。枕詞も序詞も、そのあとの言葉を引き出すためのギミックであり、言葉そのものを深くは読まない。

そして肝腎の意味を持つはずの「ながながし夜をひとりかも寝む」にしても、却って、こちらが冗語の付属物、延長というような希薄なものになってきているのです。(p.15)

引き出された言葉が「ながながし夜をひとりかも寝む」なのだが、確かにこれだけでは内容がない。テクストからはただ「一人で寝ている」ことしかわからない。こういった冗語に満たされてほとんど内容がない状態に、短歌の「しをり」を感じるという。

短歌の「しをり」というのはイメージをもたない気分だけの冗語のもたらす「風味」(p.14)

冗語がイメージを持たない気分・風味をもたらす。言わんとしてることは、わかるようでわからない。「かも」「かな」のような詠嘆のフレーズを切り落として写生に徹しても、イメージの奥には詠嘆の気持ちがある、短歌は詠嘆の形式だ、くらいに考えておくのが良いだろう。「風味」は「しをり」とイコールだというのだが、新しい用語が次々と出てくるので理解が追いつかない。さらに玉城は短歌の「しをり」を「古代から近代に至るまでのすべての短歌がのがれ出ることのできない「魔法の輪」だと述べる。調べてみると「しをり」は釈迢空(折口信夫)の詩歌用語らしい。

芭蕉が、彼の作物から悟つた「しをり」や「さび」は、悲劇的精神から出たのであつた。わびしい・かすかな・ひそかな心境の現れた作物について言ふ語である。しらべを境にして内的に観察してさびと言ひ、形式的に感受する静かな曲折の連続を、しをりと言ふのだ。

(折口信夫「女房文学から隠者文学へ 後期王朝文学史」)

迢空が芭蕉の俳句から抽出した特徴のひとつが「しをり」であった。「形式的に感受する静かな曲折の連続」の、特に「形式的に」がポイントだろうか。たしかに短歌で言えば枕詞や序詞といった用法と読み方が固定化された技法は「形式的に感受」できる。玉城の「しをり」観においては、形式的な技法だけが短歌の「しをり」を醸し出すのではなく、あくまで内容のなさ・空虚さがもたらす歌に「しをり」をみているようだ。

この範囲の拡張を言うために、玉城は「冗語」を「冗語性」に変えて、内容のなさ・空虚さを醸し出す技法を広く捉えようとした。それが「自動詞性」である。「自動詞」に「性」が加わっているのでわかりにくいが、玉城は「自動詞(形容詞も同じ)を骨組みとする感受性」は「をり」に還元されるという。これでようやく「冗語性」の拡張が一区切りとなる。

若い世代ほど、それ(嶋注:冗語をなくす傾向)が強まっていくようです。詠嘆の言葉や助動詞または「をり」(動詞ですが、はたらきは助動詞と同じ)をふくまない動詞現在形を中枢とする発想は、現代短歌において、そうめずらしいものではなくなっている(p.12)

まとめれば、内容のなさ・空虚さが感じられる歌には「冗語性」があるというのが玉城の要所だと思う。狭義の冗語を使わなくても、内容のなさ・空虚さを醸し出している歌には「冗語性」がある。「冗語性」を作り出す構造のひとつは、自動詞の性質を持つ言葉を歌の骨組みに使ったものである。

この辺りの感覚は今に通じるものがありそうだ。現代の口語の歌も「動詞現在形を中枢とする発想」がみられる。口語の歌は動詞現在形を多用する。また、文末を動詞現在形以外の言葉に置き換える試みが行われてきたが、これも正岡子規以来の短歌史に繰り返されてきた冗語との戦い、「しをり」の求心力との戦いとみても良いだろう。

そういえば、

百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た /野村日魚子

「形式的に感受する静かな曲折の連続」が「しをり」であるなら、野村の歌は定型のフォルムから離れながら、ギリギリのところで「しをり」を保っているように思う。散文に徹しきらない独特な語りの文体には、歌の内容を空虚にして主体の気分を醸し出す「冗語性」がある。

もとの歌に戻ろう。

① 思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を

② あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

万葉集でひとまとまりに並ぶこれらの歌を比べてみると、②「ひとりかも寝む」を単体で読むよりも作者の想いが伝わってくる気がする。韻律を見ると①の「思へども」「思ひも」「尾の」「夜を」のオ母音の印象はかなり強い。どちらも五七調だが、①「思へども思ひもかねつ」のリフレインや句切れが作る音の粒の大きな強い調べとは対照的に、ア母音のリズムが全体を統べる②はするすると読める。

①「思へども思ひもかねつ」が「何度も君を思う、思っても思いが尽きない」こらえきれない率直な心情の吐露であるのに対して、②は結句の係結び「ひとりかも寝む」は宣言のようであり、自分自身に「一人で寝るんだ!」となだめるように言う感じがする。自己認識が客観的すぎる。

二つの歌は、感情の示し方が大きく異なる。詠み人知らずの歌とはいえ、同じ作者が同じ時期に詠んだ歌とは思えない。先に①の歌があって、①を読んだほかの作者が「夜」への想いの寄せ方をまねして別の歌を作った、そんな気がする。

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